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第1章 邂逅 ―Happening―【1】
 
 
 


ベルリンでも、何も変わりがなかった。その前のスイスでも。人は、生まれつき孤独なのだ。
 
―アルベルト・アインシュタイン(理論物理学者/1879~1955)―
 
 


  
―1―
 


 
 
「じゃあ、他に何か持っている資格とか、大会で賞を取った事とか、そういうのある?」
  
 
放課後の誰も残っていない教室で、一人の生徒と向かい合って座った男性教師が尋ねた。つまりは、内申書に書けるようなネタを提供してくれ、 という意味合いなのだと察すると、しばらく考えた後で、少年は口を開く。
 
 
「英検準2級、漢検準1級、数検3級……あ、それと世界遺産検定3級を」
  
 
果たしてそれが将来の何に役立つのかは知らないが、少年が列挙したそれを、教師はさも重要そうに書類に書き込んだ。
  
 
「部活とか委員会とかは入ってないんだっけ?」 
 
 
「はい。時間とかお金とか、あまり家の方に負担をかけたくないんで」
 
  
「そ、そうか……まぁ、そういうのが全てじゃないからな。学生の本分は勉強なわけだし!ははは」
 
  
ごまかすように笑いながら、また、教師は何かを書き込む。乾いた笑い声を聞きながら、少年は興味のなさそうな表情で黙っていた。
  
 
深く言及してこないのは、おそらく『家庭の事情』を知っているからなのだろう。気を遣ってくれていると言えば聞こえはいいが、要は面倒ごとに首を突っ込みたくないだけだ。
 
 
無論、突っ込まれたところで何かが改善するわけでもないだろうし、むしろ家に居づらくなるという結果が目に見えていたので、彼を責める気などさらさらない。さらに言うなら、放っておいてくれて、ありがたいとすら思う。
 
 
 
その後、「よく話す友人は?」「家が近い友人は?」「休日一緒に過ごす友人は?」と尋ねられたが、それぞれ、今日の日直だった奴、学級委員長、別のクラスのタナカくんと答えた。
  
 
すべて、でっち上げである。
 
 
クラスの中で覚えている名前が極端に少なかったため、三番目の質問にはタナカくんという架空の人物を作り上げざるを得なかったが。教師は特に疑う様子もなくそれを書いていった。
  
 
「じゃあ、最後に進路の事なんだが……卒業後の事は、何か考えてるか?将来の夢とか、何かあるか?」
 
 
「まだ具体的に決めたわけじゃありませんけど、大学に行った後は、公務員に」
 
 
とりあえず、当たり障りのなさそうなところを答える。すると、教師は訳知り顔で、納得したように何度か頷いた。
  
 
「おー、お前も公務員か。最近多いんだよなー」 
 
 
「不景気ですから。夢見るよりも安定した収入が欲しいんですよ、みんな」 
 
 
「な、ほんとに嫌な時代だなー」と不満げにこぼしながら、教師は書き込みを終えた書類から顔を上げる。どうやら、全ての質問事項に回答しきったようだった。それから、「何か困ったことがあったら」という中身のない言葉で、面談を終える。
  
 
「じゃあな十条。……そういえば、お前下の名前なんて読むんだっけ?」
 
 
 「……ヒサシ、です」
 
 
 教師は「あぁ、そうだった」と呟いて、書類にある『十条九』という文字の上に、『トオジョウ ヒサシ』と読み仮名を乱雑に書き込んだ。
 
 
 
  
―2―
 
 
 
 
十条九は下足箱の前で靴を履き替えると、そのまま別館である図書室の方へと足を運ぶ。ちょうど去年の今頃、一年の担任とも同じような応対をした事を思い出し、彼は自身でも気付かぬ内に、ため息を吐いていた。すると道すがら、彼の足元へと硬式のテニスボールが転がってくる。
 
 
「お、ちょうどよかった。ボール取ってくんない?」
 
 
近くのテニスコートから、フェンス越しに茶髪の少年が叫んでいる。確か、同じクラスの生徒だったような気がする。 
 
 
「ワリィワリィ、俺が打ち上げちゃって……」
 
 
さらにもう一人、整髪量で髪をツンツンに立たせた少年が、その隣に駆け寄ってくる。いかにも「チャラい」風貌の二人と自分が並んでみると、何となく、自分とは違う種類の生き物を見ている気分だった。
  
 
「ってわけで、えっと……なぁ、あいつなんて名前だったっけ?」
  
 
「え?あんな奴クラスにいた?」
 
 
「ほら、窓際の一番後ろの奴だって」
 
 
 丸聞こえで、ずいぶんと失礼なことを言ってくれる。しかし、先ほど自分もクラスメイトの名前をほとんど覚えていないことが判明してしまったので、人のことをとやかく言える立場でないことは、彼も分かっていた。まだ5月の頭であるし、とりわけ仲のいい生徒同士でもなければ、名前を覚えていないこともあるだろう。
 
 
その理論から言えば、クラスの誰も自分に興味を持っていないことになってしまうが。
 
 
「ああ!わかったわ!あのいっつも本ばっか読んでる陰キャラくんだ!」
 
 
「確か、名前に数字が入ってたくさくね?九か……十だっけ?」
 
 
「えっと……九条?」
 
 
「あ、それっぽい!いや、確かそれだわ!」
  
 
二人が何やら盛り上がっている一方で、十条九はどうでもよくなり、ボールを返そうと、フェンスの上を目がけてボールを投げる。高さが足りずに二回ほど失敗したが、話に夢中になっている二人には気付かれなかったようで、恥ずかしい目には合わずに済んだ。
 
 
「サンキュ!助かったわ、クジョウくん」
 
  
そんな名前のネギがあったな、と内心呟いてから、彼はその場を後にして図書室へと向かった。
 
 
 
古びた重いドアを開けて中を見渡すと、そこには数人の生徒がいるだけだった。放課後の図書室が妙に活気づいていたら、それはそれで気味が悪いのだろうが。
  
 
十条九は本棚の間を通り、奥の貸し出しカウンターへと向かう。書冊の匂いを嗅いでいるこの瞬間は、不思議と心が落ち着いた。リノリウムを踏む足音を聞くと、カウンターの奥にいる、眼鏡をかけた白髪混じりの女性が彼に気づいて微笑んだ。
 
 
「いらっしゃい」
 
 
「こんにちは。あの、前に貸し出しの予約をした本って、もう返却されてますか?」
  
 
図書室に新しく入ってきた新刊は、競争率が高く、大抵の場合すぐに誰かに借りられてしまう。そこで彼は、あらかじめ予約をしておくことで、返却された本をキープしてもらっているのだ。
 
 
 無論、誰もがそんな待遇を受けられるわけではない。足しげく図書室へと通い、受け付けの人に名前を覚えられ、借りる本の傾向を覚えられて初めて、「今度こんな本が入ったんだけど、次に返却された時に取っておく?」と聞いてもらえるのだ。
 
 
 彼もまた、伊達に年間200冊以上の本を借りていない。最近では、知人の数よりも今まで読んだ本の数の方が多のではないかと思っている。
 
 
 「ええ、返ってきてるわ。じゃあ、取ってくるから少し待っててね」
 
 
 そう言って女性は奥の書庫へと消えていく。
 
 
後に残された十条九は、しばらくの間他に目ぼしい本がないか、見て回ることにした。
  
 
「えーわかんなーい。ねぇねぇユウくん、これどうやって解くのぉ?」 
 
 
そんな、鼻につくような女の声が聞こえてきたのは、図書室の隅に設けられた学習スペースだった。何の気なしにそちらを見てみると、一組の男女が肩を寄せ合って一つの参考書に目を向けている。実に仲睦まじい光景だ。早々に爆ぜてしまえばいい。
  
 
「どれどれ……あぁ、こんなのちょっとした応用だよ。こっちの式を使って……」
 
 
 「えーやだー、ユウくんチョー頭いいー!」
 
 
 お前のしゃべり方は頭良くなさそうに聞こえるな、と思いながら、彼は適当に本を見て回る。なるべくそちらを意識しないようにしてはいるが、ボードレールの詩集を手に取りながらも、なんとなく気が散ってしまっている。
 
 
「はは、ここはたまたま得意なだけだって。公式を覚えちゃえばヨユーだよ。この場合は二倍角だから、2sinα=2sinαcosαで解けるんだ」
 
 
「もー、ユウくん天才!そういうとこ超好きー!」
 
 
非常にどうでもいいが、そういうことは他所でやっていただきたい。ベタベタするのならいくらでもほかの場所でできるから、わざわざそんな様子を見せつけに来なくて結構だ。どうせ女の方は今の説明も理解していないだろう。図書室にしか行く当てのない者たちに謝罪すべきだ。と、その最たる者である十条九はそう思った。
 
 
「お待たせ」 
 
 
戻ってきた女性に声をかけられ、カウンターへと戻る。そのまま手続きを終わらせ、彼は礼を言ってから図書室を後にすることにした。去り際にチラッと学習コーナーに目をやると、未だに例のカップルはいちゃついている。どうでもいいがユウくん、二倍角の公式はsin(2α)= 2sinαcosαなんだけど、 と思いつつ、彼はそっと図書室を出た。
  
 
せいぜい痛い目と恥ずかしい目を見ればいいのだ。

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