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―5―

 

 

「じゃあね、十条くん」

 

帰り際に、再び委員長に声をかけられた。

 

「あ、うん」

 

一日に、三度も同じ人に声をかけられる。勘違い野朗であれば、即座に「あれ?こいつ俺に気があるんじゃね?」と勘違いしているレベルである。

 

無論、彼はそんな勘違いなどするわけがない。そんなもの、中学生の時点でとっくに卒業している。そもそも、女子の大概は「あれ?こいつ俺のこと好きなんじゃね?」オーラを出しているものなのだ。そして、リア充たちにとっては、ぼっちに声をかけてやることすら、ステータスの一つ、フィールドワークに過ぎないのだ。

  

もはや惑わされない。そう決心を固めつつ、彼は教室を後にする。

 

そういえば、今日教室内で発した言葉が「うね」と「うん」だけだったなあ、と、去り際にそう思った。

 

 

駅前で待ち合わせてから、十条九と朝陽は、空港へと向かった。片道電車で一時間はかかることにぶつくさ文句を言いながらも、朝陽に連れられて、とうとう空港へと着いてしまう。そこでも「人が多い」だのなんだのと文句を言うが、彼が一番嫌がっているのは、叔父たちに会うという事実なのだ。

 

端的に言って、彼は叔父夫婦が嫌いで、叔父夫婦もまた、彼のことが嫌いなのである。それもそのはず、血が繋がっていないという理由であまりにも露骨な差別をしてくるような叔父たちを好きにはなれないし、彼らもまた単純に、ひねくれた性格の十条九を好きにはなれないのだ。

 

「っていうか、早く着きすぎたんじゃないか?7時くらいなんだろ?」

 

「そうだね……でもまあ、遅れるよりはマシでしょ?」

 

「……俺、ちょっと売店でも見てる」

  

「あ、ちょっと!」

 

彼は妹を一人残し、その辺へとふらふら歩いていった。何ならこのまま帰りたいとすら思いながら、売店を見る。ふと、お土産用のお菓子の詰め物の一つが、彼の目に留まった。

 

「……コアラのムーチョ、日本限定紀州梅味か……」

 

「コアラのムーチョ」とは、中にチョコレートが入っている焼き菓子である。老若男女に愛される日本で大人気のお菓子だ。その人気の秘密は、味や食感もさることながら、そのデザインである。小さなビスケット生地の表面一つ一つに、コアラのキャラクターの絵が描かれているのだ。

  

しかも、その絵の種類が実に豊富であり、楽器を演奏しているコアラ、スポーツをしているコアラなど、聞くところによると軽く800種を超えているらしい。また、基本であるチョコレート味の他に、イチゴ味や、期間限定のマロン味など、飽きを感じさせない味のバリエーションも、皆から愛される理由の一つだろう。さらに、日本以外にも十数カ国で販売されており、その人気は留まることを知らない。

 

「よりにもよって外国人用のお土産に梅味か。少し際どいだろ……いや、コアラのムーチョのことだ、きっと梅嫌いな人でも梅が食べれるようになるくらい美味いに違いない」

 

彼は一瞬それを買おうかどうか迷ったが、お土産用の大きなサイズのものしか売っていなかったため、断念せざるを得なかった。やむを得ず彼は渋々とその場を離れる。一通り売店を見終わって、彼が妹の元へ戻ろうと、振り返った時だった。

  

「――え?」

 

飛行機が見えた。

  

朝陽の後ろ側にある大きな窓ガラスの向こうに、一つの旅客機が飛んでいる。空港に旅客機がある、などとそんなことは当たり前であるが、それを見た瞬間、彼の背中をゾクリと悪寒が走った。

  

高度が、機体の向きが、明らかにおかしい。目測で200mほどの低空を飛んでいるのにも関わらず、車輪すら出ていないのだ。第一、滑走路の向きからして、進入方向が合っていない。

 

つまり――

 

「朝陽ッ!走れ!」

 

悲鳴が上がった。

 

窓とは反対方向に、十条九のいる方に、たくさんの人が押し寄せてくる。年齢も性別も、国籍さえバラバラな人の群れが、互いを押しのけながら、われ先にと逃げ惑っている。

 

その一人の中に、朝陽はいた。

 

流れに逆らいながら、十条九が手を差し出す。それに応えるように、朝陽も手を伸ばす。

 

その瞬間だった。

 

轟音とともに、朝陽の姿が消えたのは――視界が、真っ暗な闇に覆われたのは。

 

 

 

 

―6―

 

 

 

一機の旅客機が、空港へと突っ込んだ。

 

不自然な位置で高度を下げた旅客機は、機体の底で隣接する駐車場をこするようにした後、十条九や朝陽がいる方へと突っ込んだのだ。もしそれで減速していなかったら、被害はさらに大きくなっていただろう。燃料に火がつかなかったことが、奇跡だったと言っていい。

  

「……あ……つ……」

  

呻くような声を上げながら、瓦礫の中でわずかに身を動かす。十条九は、未だに死んでいなかった。どうやら件の機体は彼の頭上を通過して行ったらしく、直撃自体は避けられたようだ。口の中が切れているようで、咳き込んだ瞬間に、彼は血を吐き出した。

 

「……ッ!?」

 

顔をほんの少し上げてみると、すぐ目の前に炎があった。彼の前髪の先を、熱がチリチリと焦がしている。彼はすぐに顔を逸らそうとして、全身の痛みに顔をしかめた。体のあちこちが、打撲痕や切り傷でいっぱいだ。頭は重いし、耳の奥もガンガンと痛む。ひょっとしたら、鼓膜が破れているのかもしれない。右腕も、うまく動かない。折れてはいないのだろうが、肩に力が入れなかった。

 

その時、彼の体の下で何かがモゾモゾと動くのを感じる。

 

「……そうだ……朝陽……無事か?」

 

彼は先ほどの瞬間に、目の前にいた朝陽をかばうように、覆いかぶさったのだった。我ながら、咄嗟によくあれだけ動けたものだと思う。

 

「さっさと……ここから離れるぞ……いつ……燃料に引火するか……」

 

そう言って、腕の中を覗き込む。

 

「動けるか……朝……陽?」

 

しかし、そこに朝陽はいなかった。

  

代わりに、その腕に収まっていたのは、全く見知らぬ、一人のおじさんだった。彼の胸の中で、禿頭の男性が伸びて気を失ってのびていたのだ。

 

「……ひ、人違い……かも……でした……」

 

なんと無様なことだろう。颯爽と妹を守ったかと思ったら、助けたのは見知らぬおっさんだったのだ。なんともむなしい気分に襲われながら、彼はなんとか立ち上がった。幸い、どこも折れてはいないようで、どうにか動けそうだった。

 

見渡した周囲には、他に誰もいない。というより、十条九のいるこの空間が、崩れた天井で分断されているようだった。さほど広くない空間に、自分たち二人と、音を立てて燃える炎がある。そして、出口がない。それに気づいた瞬間、十条九は顔をしかめていた。

 

「これじゃ、救助が来る前に酸欠になる……早く、しないと……煙吸ったらやばいし……あとは……」

 

なかば引きずるようにして、男性を炎から遠ざける。それから彼は、手近な瓦礫の山を崩し始めた。

 

「どうにか、空気が通るようにしないと……」

 

動く方の左手で、必死に瓦礫を除けていく。瓦礫を掴んでは投げ、それを繰り返していく間に、手に持った瓦礫が、何かで滑って転がり落ちた。見ると、手のひらが真っ赤に濡れている。だいぶ深く切れたようで、血がボタボタと溢れていく。それでも、彼は瓦礫の山をひたすら掘り続けた。

 

どのくらいの間、そうしていたのか分からない。数分のことのようにも感じたし、その数十倍もかかったようにも感じる。だが、血で濡れた彼の手のひらに、確かに空気が流れるのが触れた。

 

「もう、少し……」

 

呻くようにしながら、次の瓦礫に手を伸ばす。だが、地面に食い込んでしまっているのか、どれほど力を込めても、それは動きそうにない。それに加えて、左手の感覚が無くなっていた。

 

「くそ、ここまできて……」

 

思わず、脱力してその場にへたりこむ。段々と酸素が薄くなってきているのか、いくら空気を吸っても、吸い足りない感覚がしていた。

 

 「……いっそ、自分一人なら諦めがついたものを」

 

振り返った先に、例の男性が横たわっている。胸が微かに上下しているところを見ると、まだ無事のようだ。

 

十条九は、先ほどから掘り続けてできた穴を睨み付ける。その一番奥にある、動かない瓦礫へと、彼は蹴りを入れた。しかし、それでも瓦礫はびくともせず、蹴った反動で彼の方が倒れる始末だった。左の手の甲で汗を拭いながら、再び立ち上がる。そして、彼はもう一度、同じように瓦礫を蹴った。

 

まるで同じ動きをするだけの機械のように、蹴り続ける。もはや、頭で何かを考えることすら、ままならなかった。何度も、何度も、蹴り続ける。やがて膝に力が入らなくなり、彼はくず折れるようにして倒れこんだ。

 

 「……く……そ……」

 

もう一度、と力を込めた足が、血溜まりで滑る。そのまま彼は起き上がることもできずに、視界が暗転していった。

 

 

 

 

 

 

 

次回予告

 

 

 

突如与えられた女王の力に、困惑する私。

そんな私を手に入れるため、イケメンヴァンパイアたちによる争奪戦が始まる。

あぁ、やめて!私のために争わないで!

そして、訪れる恋の予感。

種族を超えた禁断の恋、それはまさに、敵対する血族が故に結ばれないロミオとジュリエットのよう……

あぁ、でも私にはお兄ちゃんがいるというのに……

 

 

次回、第二章 巨乳―Oppai―

 

見てくれないと、許さないんだからね!

 

 

 

「……って書いてある日記帳が、お兄ちゃんの部屋から出てきたんだけど」

 

「身に覚えがない」

 

「少しの間物陰にでも隠れていろ。巻き込まれるぞ」


「え!?あ、は、はい!」


慌てて返事をすると、彼女は急いで駆け出した。


「ふふ、心配せずとも、お嬢さんに手を出したりはしませんがね」


いや、と口にしながら、女性が銃を構える。


「私が、巻き込まない自信がないんでね」


「ほう、それはとても恐ろしい」


一寸もそんなことを思っていなさそうな表情のまま、彼は足元のステッキをつま先で蹴り上げると、パシッと右の手のひらに収めた。

 


「時間も押しています。そろそろ始めると……」

 


まだ言い切らないうちに、再び乾いた銃声が鳴り響いた。それと同時に、四人が別々の方向へ動き始める。

 


「コウガネちゃん、そっちは任せてええか?」

 


「無論だ」


女性はダンとの間合いを詰めるように駆けながら、弾丸を数発に渡って撃ち出す。秒速にして実に300mを超えるそれを、しかしダンは瓦礫の合間を縫うように移動しながら、全てかわしていた。

 


「……なかなか、嫌な弾道ですね。よく訓練されているのが分かります」

 


「避けながら言われると、皮肉にしか聞こえないがなっ!」

 


後ろ手に、彼女はホルスターからもう一つ拳銃を取り出す。続けざまに放たれた弾丸は、ダンの頬をかすめた。

 


「ほう……避けたつもりだったんですが」

 


「こっちも、当てたつもりだったんだがな」

 


ダンは頬の傷口を指先で拭うと、地を蹴って一気に女性との距離を詰めた。

 


「では、次はこちらから仕掛けさせてもらいましょうか」

 


俊敏な動きで振り下ろされたステッキを、女性は紙一重で避ける。彼女はそのまま、左手に持った銃をダンの額に向けて突き出す。その動きには、一切の無駄が無かった。

 


「させませんよ」 

しかしそれを上回る素早い動作で、ダンの左手が彼女の手から銃を叩き落す。そのまま流れるように掌底を繰り出すが、女性はそれを左手でいなしていた。

 


舌打ちしながら、今度はすかさず右腕を上げる。ダンはその動作に気づくや否や、後方に距離をとる。再び数発の銃弾が放たれたが、彼は宙返りをしながらそれをかわしきった。

 


「ほー、さすがじゃのぉ。あれを全部避けられるんか。まるで曲芸でも見てるみたいじゃ」

 


「余所見してんじゃねえよ!このクソジジイがっ!!」

 


トーマの怒号に、男が慌てて振り返る。直後、何メートルもある巨大な瓦礫の塊が、トーマの手から放られていた。

 


「おおっとぉ!?」

 


あまり機敏とは言えない動きながらも、なんとかそれをかわす。地面に瓦礫が叩きつけられた瞬間、まだその場から離れる途中だった朝陽のいる場所まで、振動で大きく揺れた。

 


「危ないのぉ。当たったら痛いじゃ……」

 


その瞬間、男の顔に影がかかる。直後、彼の視界は再び、瓦礫に塞がれていた。

 


「おら!二投目、三投目!次々いくぞ!」

 


息を飲む間もなく、先ほどよりも大きな瓦礫が、男のことを押し潰す。避け場のない瓦礫の雨に、男の姿は埋もれていった。

 


「はは!余裕ぶっこいてるからだバーカ!」

 


嘲るようにそう言うと、ダンたちの方に視線を向ける。

 


「さて、あっちでやり合ってるうちに、『目』と『心臓』を……」

 


「イタタ……おぉ、いてえ」

 


不意に聞こえてきた声に、トーマは弾かれたように振り返る。瓦礫の山を押しのけて、先ほどの男が這い出てきていたのだ。

 


「なに……!?」

 


目測でも、数トンはある事が分かる瓦礫の山だ。無論、そんな物に押し潰されて、生きているはずはない。トーマが目を見張るのを見ると、男はニヤリと口角を上げる。

 


「なんじゃ、化け物でもみるような顔して」

 


男の身体が、素早く動いた。あっという間に距離を詰めたかと思うと、男はその巨体をトーマの懐に潜り込ませていた。

 


「化け物は、われらの方じゃろうが」

  


ザンッ、という音に遅れて、黒い血が舞った。腹部を狙った一撃は、トーマが咄嗟に出した左腕に刺さり、狙いが逸らされる。ちょうど左手首に数センチ程度食い込んだだけの短刀を見て、男は少しばかり驚いたように細い目を見開いた。

 


「お……?手首くらい切り落とせると思うたんじゃが……ずいぶん硬いなぁ」

 


「ちっ……こいつも銀製か……」
  

男はすぐさま短刀を引き抜くと、そのまま手首を返して再び切り付ける。

 


「なめんなッ!!」

 


繰り出された刃を、右の手で握って受け止める。次の瞬間、バキン、と音をたて、銀色の破片が砕けて飛び散った。

 


「んっ……!?」

 


男は慌てたようにバックステップを踏むが、追い討ちをかけるようにトーマが振るった右腕が、男の右肩と頬を掠める。男はバランスを崩して後ろ向きに転がるが、なんとか距離をとって立ち上がった。

 


「ふん、よけやがったか」

 


「馬鹿言うな。かすっとるわ」

 


男はそう言うと、口からプッと何かを吐き出す。そこには、血にまみれた歯の破片が転がっていた。

 


「あーあ、この歳で入れ歯デビューか。げに、嫌になるわー」

 


「は!老いぼれのくせに強がってんじゃねーよ!その調子じゃ、右肩も上がらねーだろ!あれ?四十肩かなぁ!?あ、五十肩か!」

 


「うるさいわ!このハゲ!」

 


男は右肩を押さえながら、トーマの方に数歩近づく。

 


「おいおい、まだやる気かよ。もうお前のエモノは壊れてんだから、無理すんなジジイ。介護する周りの方が大変だぞ」

 


そう言いながら、トーマは両腕を構えた。それを見て、男は苦笑する。

 


「だから、55じゃと……」

 


グン、と男は姿勢を低くする。次の瞬間、男は地面がえぐれるほどに強く、地を蹴っていた。

 


「何回言やぁ分かるんじゃ、ボケぇ!!」

 


トーマの構えをすり抜けた拳が、顔面に叩き込まれる。遅れて、その衝撃音が周囲へと響き渡った。

 


「ぶっ!?」

 


ゴキンッ、と何かが砕けたような音とともに、トーマの身体が宙に舞う。そのまま十数メートル飛んだ後で、その身体は瓦礫の山に突っ込んで止まった。大きな振動が辺りを揺らし、天井からパラパラと埃が降ってくる。その様子を遠巻きに見ていた朝陽にも、それが明らかに人間業ではないことが分かった。

 


「ガキをしかるときゃぁ、拳骨にかぎる。きしゃっと身体に覚えさせんから、きょうびのガキは調子こくんじゃ」

「……くっ……」

 


よろよろと、トーマが瓦礫の中から身体を起こす。その鼻や口からは、黒い血が膨大に滴っていた。

 


「今ので首が吹っ飛ばないんか。本当に硬いの。まあ、左手で殴ったし、しゃあないか」

 


そう言いながら、つかつかとトーマの方に歩み寄る。男は、そのまま間髪入れずに再び左腕を振り上げた。

「くそっ……!」

 


トーマは、振り下ろされる拳から、顔を逸らすようにして逃れる。凄まじい衝撃音とともに、トーマの背後の瓦礫が粉々に砕けた。トーマはその瞬間を狙うように、右手を男の顔に伸ばす。

 


「おっと、さすがにこれ以上歯折られるんは勘弁」



「あなたが、母の最期を看取ってくださったのでしょう?きっと、母は喜んでいると思います。しかし、まあ……私としては、実の息子である私がその役を担えず、心苦しくもありますが」

 


わずかに自嘲気味な笑顔をたたえる。どこか憂いを帯びたそんな笑顔も、まるで絵画のようだった。

 


「おやおや、上品振りながら、よくも口が回ること!てめえのそういうところ、一周回って清々しいな!よもや、その左腕が誰のモンか、忘れたと――グッ!?」

 


ダンは、振り返りもせずに、ステッキを振り上げる。その先の部分が、トーマの顎を捉えていた。掬い上げるような一撃を見舞われ、トーマは仰向けに倒れる。その間も、彼の表情は崩れない。その笑顔が、いやに不自然なものに感じられた。

 


「ところでお嬢さん。母から何か預かっている物があると思うのですが、よろしければこの場で、それをお渡しいただけますか?」

 


「……預かっている物?」

 


「ええ。恐らく、この愚弟の手に渡らないように、一時的にあなたに預けたのでしょう。ですが、それを持っていてはあなたに危害が及ぶかもしれません。何ゆえ、遺産のようなものですから……この男のような者たちが、絶えず狙っているのです」

 


いったい何の話をしているのだか、いまひとつ要領を得ない。恐らく、さっきから『目』だとか『心臓』だとか呼ばれているもののことだろう。いや、もしかしたら『目』と『心臓』そのものなのかもしれない。だとすれば、納得できることもある。

 


実際、トーマは母親からちぎった右腕を自分の身体に癒着していた。無論、どんな理屈かは分からない。そして、先ほどの『左腕』という発言も、このダンという男が母親のそれを奪ったことを示しているのかもしれない。

 


だとすれば、だ。

 


この二人は、『目』と『心臓』という二つの器官を、彼女が持っていると思っているのだ。

 


「遺産……って……どうしてあなたは、そんなこと聞いてるんですか?自分の……母親、なんですよね?その人が亡くなったっていうのに、どうしてあなたは、冷静にそんなことを尋ねてられるんですか?」

 


ああそうか、と、彼女は心の中で納得する。自分の母親が死んだというのに、これだけ表情を取り繕うことができる。今まで、この男を見てどこか不安に感じていたのは、そういうことだったのだ。自分の母親の死をなんとも思っていない。つまりは、そこに転がっている金髪の男と同じなのだ。

 


そして、彼女はそれが許せない。恐らく、彼女自身の親が死んだときのことと重ねている部分もあるのだろう。

 


「それどころか、一度たりとも遺体を見ようとすらしない。まるで物でも扱うみたいに……」

 


ふむ、と、ダンは困ったような表情を浮かべる。しかし、すぐに口元に笑みを浮かべると、「遺体、とはいい言葉ですね」と口にした。


「は……?」

「故人の体を、死体ではなく遺体と呼ぶ……亡くなった方への、敬意が表れている。美しい言葉です」

 


陶酔に浸るような、そんな表情のまま、彼は続ける。

 


「誤解しないで聞いていただきたいのですが、遺体を故人そのものとして敬うのは、人間特有のモノだと思うのです。人に最も近いとされるチンパンジーでさえ、仲間が死んでしまったら、邪魔になってしまったそれを物陰に隠す。あるいは、それを食べてしまうこともあるそうです。自然界では、それは貴重なタンパク源ですから」


こいつは何を言っているのだろう、何を言いたいのだろうと思いながら、朝陽は一歩後ろに下がる。何か、決定的に自分と会話が噛み合っていないような感覚がしていた。


「私たちの考え方は、それに近いのです。死体は、もはや亡くなった故人そのものではない。死体に、肉の塊以上の価値を見出せない。価値観の相違、というやつでしょうかね。姿形は似ていても、あなた方と私たちは、やはり違う生物なんでしょう」

 


そんな訳のわからない哲学のようなことを言いながら、ダンは踵を返し、母親の死体の元へと歩を進める。

「しかし、だからといって、私が母のことを敬っていないという訳ではありません。純粋にすばらしい人徳者だったと尊敬もしています」


彼は母親の前で膝をつくと、帽子を外し、頭を下げた。朝陽には、この男の考えがまるで分からない。口であんなことを言っておきながら、『人間のやり方』に倣うかのように、熱心に頭を下げている。まるで、最初はその作法を知らなかっただけだとでも言うかのようだ。

 


「……じゃあ」

 


ひょっとしたら、この人と分かり合うこともできたのかもしれない。そんなことを考えながら、彼女は口を開いた。

 


「なんで、飛行機事故を起こしたんですか?」

 


「…………」 


ゆっくりと腰を上げながら、ダンは振り返った。

 


「それは……カマをかけているのですか?」

 


「……否定、しないんだ」

 


朝陽は半歩後ろに下がる。なぜだか分からないが、彼女は妙に頭が冴えていた。いつもの彼女なら、あの女性が死んだ時点でパニックを起こしていたところだろう。しかし、今の彼女は不自然なほどに落ち着いていた。

 


「さっき、そこの金髪が、あの人の右腕を奪ってくっつけてた。そして、あなたの左腕も同じだってことをほのめかしてた。最初は、単にあなたが母親から貰ったものかもしれないと、そういう考え方もできると、思ったけど……あの人は、右腕以外の四肢が、ちぎられていた」


ダンは何を言うまでもなく、観察するような目で朝陽のことを見ていた。

 


「どういうわけか分からないけど、あなたたちはあの人の身体の一部を、狙ってる。この飛行機事故は、あなたたちがそれを得る、そのためだけに起こされた」

 


違う?という朝陽の問いかけに、ダンは口元に笑みを浮かべた。

 


「大した想像力ですが……確証性に欠けますね」

 


「そうかもしれないけど、一つはっきりしていることがある」

 


まるで、子どもの言っている戯言を聞いてあげている大人のような、そんな優しい笑みだった。その顔に向かって、朝陽は言った。

 


「あれだけの回復力を持っているあの人が、あそこまで衰弱するなんて……意図的な『攻撃』でも受けない限り、ありえない。そして、見る限りそこの金髪より、あなたの方が強い。もしもあなたがあの人の味方をしていたとしたら、負けるわけがない。つまり、あなたはあの人を『守った』側じゃなくて、『襲った』側なんでしょ?」 

 


「……ほう」 

 


ダンの目が、彼女に興味を持ったとようにキュッと細められる。

 


「なかなかいい線です。これだけの情報からそこまで状況を理解できますか。あなたは、とても聡明なようだ。だからこそ惜しいですね……このいざこざに巻き込まれなければ、あなたはきっと……」

 


その時、思案しているダンの顔に影がかかった。いつの間にか起き上がっていたトーマが、ダンの後ろから飛びかかっていたのだ。

 


「いつまでトロいお喋りしてんだよ、てめぇらは!!」

 


そのまま、彼はダンの頭上に右腕を振り下ろす。それを、振り返りもせずに、足を数歩動かすだけの最小の動きでかわした。

 


「ま、時間稼ぎ、ごくろーさん!そのおかげで『目』の効力が切れた!」

 


「きゃっ!?」 

 


その右腕が地を叩いた瞬間、大きな地震のような振動があたりを襲う。その衝撃は建物全体を揺らし、ミシミシという何かが崩れるような音を鳴らし始めた。

 


「はは!軽く叩いただけでここまでの威力だ!次は全力で、あんたの体で試してやるぜ、クソ兄貴!」

トーマは叫ぶように言いながら、再びダンに拳を振りかぶる。それを紙一重でかわしながら、ダンは静かに目を細めた。

 


「やっぱりちまちまと頭使うのは性にあわねぇ。とりあえずお前らをぶっ殺して、その遺品全部オレがいただいてやる!オレは、両腕と魔眼、心臓を手に入れて、残る『遺品』もすべて……」

 


「よくもまあ、そんな小悪党のような台詞が吐けたものだ」

 


何度目かの拳をかわした後で、ダンはスッと間合いに潜り込む。そのままそっと握っていたステッキを放ると、左手でトーマの顔を掴んだ。

 


「なっ……!」

 


「いいでしょう。そこまで死に急ぐのなら――」

 


左手にグッと力が込められた、その瞬間だった。


男は紙一重で後退し、それをかわした。その隙に起き上がったトーマもまた、素早く後方に距離を取る。トーマは男を睨むように目を細め、口元の血を乱暴に拭った。


「てめえ……巫(かんなぎ)か」

 


「んー?ようそがぁな古い呼び方知っとるの」

 


トーマの視線が一瞬、ダンと少女の方に向けられる。

 


「……あの女もか」

 


「ふん、察しええの」

 


男もまた、二人の方へと顔を向けた。その先で、二人は動きを止めて対峙していた。
​​

「……これは」

 


ダンは、自分の右の手のひらに空いた穴を、不思議そうに見ていた。その穴越しに、二丁の銃を構えた女性が立っている。


「おかしい、ですね。完全にかわしていたはずですが」


「なら、完全じゃなかったんだろう」 


ダンが右手を下ろすのと同時に、二丁の銃が再び火を噴いた。ダンはすぐさま駆け出すと、手に持ったステッキを頭上へと放つ。ステッキが、かろうじて形を残していた天井へと突き刺さり、ガラガラという音をたてて崩れ始める。しかし、女性はそんなものには見向きもせず、ダンに銃を向けたまま駆け出した。


「……なるほど、やはり、そういうことですか」


天井から落ちてくる瓦礫をうまく盾にしながら、ダンは銃弾をかわしていく。その視界に、わずかに残っていた建物の壁越しでこちらを見ている朝陽を捉えた。



「おっと、これはいけませんね」


その頭上の天井が崩れかかっているのを見て、ダンは呟く。ダンはそのまま、朝陽の方に進路を変えた。


「お嬢さん、頭を下げ……」


その瞬間、前方から飛んできた弾丸を避けるため、ダンは横に大きく跳んだ。いつの間にか彼女は、朝陽のすぐ近くまで回りこんでいたのだ。



「天井が崩れる、早くこっちに」



女性は片手の銃をホルスターに納め、朝陽へと手を伸ばした。その間も、彼女はダンへと銃を撃ち続けている。


「え!?わっ……!」


女性は素早く朝陽の手を引くと、銃を撃つ手を止めないまま駆け出した。どこか現実離れした姿の女性の後を、戸惑いつつもついて行く。自分の理解の及ばないことが起きているということしか、朝陽には分からなかった。


天井がほぼ全て崩れ落ちてから、女性は足を止める。それに対峙するダンは、右の脇腹を片手で押さえていた。


「また一発、貰いましたか」


「その一発を当てるのに、何発無駄撃ちさせられたと思ってる。あの瓦礫の雨の中で、よくあれだけ動けたものだ」


それを聞いたダンが、おかしそうに吹き出した。


「ふふ……これは失礼。ですが、その台詞はそのままお返ししますよ。あの瓦礫の雨の中で、上にも足場にも一度も目を向けず、それでいて、瓦礫にかすりもしていない。それどころか、私に一発お見舞いするとは……」


ダンの視線が、再び鋭さを増す。 


「明らかに、人間の視界では不可能な動きです」


「……私たちは人間だ。お前らと一緒にするな」


腹の底から出したような低い声に、朝陽は思わず悪寒のようなものを感じ、女性の顔を見た。眉間の間にしわを作り、歯を食いしばったその表情からは、憎悪以外の何も感じられない。


「おっと、失言でした。申し訳ありません。決して、そのような意味で言ったわけでは……ですが、あなた相手にこのままというのも、少々分が悪い」


そう口にしながら、ダンは胸元の辺りまで左手を持ち上げた。その瞬間、女性は何かに感づいたように身構える。


「大人気ない……などと、思わないでくださいね。これを使うのは、あなたがそれに値する猛者であると認めているからです……おや?」


ふと、何かに気づいたように、ダンは顔を上げる。その視線が周囲を巡ると、彼は何かに納得したように頷いた。


「なるほど、あなたたち二人だけではなかったのですね。まあ、当然といえば当然ですか。……トーマ!」


その声に応えるように、少し離れた瓦礫の山が崩れた。その中から、砂埃まみれのトーマが這い出てくる。


「んだよクソ兄貴!好き勝手やりやがって……」


「埋まっている場合ではありませんよ。囲まれています」


「んなこと、いちいち言われなくとも……」


周囲に視線を走らせ、トーマは舌打ちをした。


「……そこそこ多いな……」


「これだけの大騒ぎを起こしたんです。恐らく、それ相応の手だればかりでしょうね。今は退くとしましょう。トーマ、もちろんあなたもですよ。彼らに右腕まで取られてしまうと、少々厄介ですからね」


トーマが、いらだったようにダンを睨みつける。不快感を露にしたその視線を浴びても、ダンは眉一つ動かさなかった。


「てめえ……オレがやられるって言いてぇのか?」


「おや、きちんと言葉の意味を理解できたようですね。あなたにしては珍しい」


次の瞬間、トーマは再び右腕を振るっていた。大気が大きく振動し、周囲に積まれた瓦礫が音を立てて崩れる。そんな中、ダンは風圧で飛ばされそうになった帽子を押さえながら、悠々とそれをかわして、トーマに背を向けて歩き出していた。


「いい加減にしろよこのクソ野朗がっ!!てめえから先にバラしてやってもいいんだぞ!!」


「できもしないことを吠えないことですよ、トーマ。余裕がなくなると声を荒げるのは、あなたの悪い癖ですね。余計に小物に見えますよ」


そのまま優雅に歩くダンの背に、再び銃弾が飛ぶ。だがそれを、ダンは目にも留まらぬ速さで振り返りながら、左手の中に収めていた。

 

「このまま逃がすと思うか?」



女性の言葉に、ダンは微笑を浮かべながら答える。


「ええ、あなたたちはこれ以上私たちを追ってはこない。そのお嬢さんがあなた方の手の内にいることで、当面の危機は去るのだから。後顧の憂いとは言えど、リスクを冒してまでここで私たちを倒すことはしないでしょう」


ダンがその手を開くと、弾の代わりに、砕けた金属片と灰のようなものがパラパラと地に落ちる。女性がそれを見て目を細めたのは、見逃されているのが自分たちの方である事を、見抜いたためだろう。


「ご心配なく。いずれ、また会うことになるでしょうから」


「……ああ、いやでもな」


女性はぶっきらぼうに答えると、銃をおろした。


「しかし、このまま何の手土産もなく逃げ帰るのは、何とも口寂しい。代わりと言っては何ですが、ぜひともあなたのお名前をお伺いしたいものですね。私は、『女王』の長子、ダンと申します」


「……甲鐘彩夏(こうがねさいか)」


それを聞くと、ダンは満足げな表情で帽子を取り、頭を下げた。


「では、甲鐘さん。以後お見知りおきを」


そんな言葉を残して、ダンは歩き去って行く。舌打ちとともに眉をひそめながら、彼女は残ったトーマの方に視線を向けた。それに気づくや否や、トーマは大きく後方に跳びながら距離を開ける。


「あーあ、白けたし、オレも帰りますかねー。まだ『右腕』も本調子じゃねえし」


言いながら、トーマが左手の中指を立てる。直後、再び銃声が鳴り響いたかと思うと、その指が黒い血液を上げながら、宙を舞っていた。


「……ったく、ジョークも分かんねえのかよ、この女」


トーマは不機嫌そうな顔をしながら、拳銃を向けている女性に毒づく。そこから再び銃弾が放たれると、彼は大きく跳躍しながらそれをかわし、暗闇に紛れるように消えていった。それを見送ってから、朝陽はその場にへたり込む。まだ女性と繋いだままの手に、じっとりと汗がにじんでいた。

 

 

「うぜえ」

 

それっきり、朝陽の耳には男が荒く息をする声しか聞こえてこない。何が起きたのかを察するのには、それで十分だった。

 

「いやっ……そん……な……っ」

 

朝陽には、顔を上げることができなかった。だんだんと頭の中が白くなっていき、現実逃避を始める。

 

「うぜえよ‼この老いぼれが‼死に際に説教たれてんじゃねえよ‼」

 

腹の底から出した声が、辺りに響いた。

 

「……ちっ!このクソババアが……面倒ごと増やしやがって!あの身体だったんだ……そう遠くに隠せたわけはねぇ……」

 

ガラガラと瓦礫を崩す音が、朝陽の方へと近づいてくる。

 

「きゃっ!?」

 

不意に、朝陽の髪が掴まれた。そのまま、乱暴に朝陽を立たせる。

 

「いっ……たっ……!やめてっ!」

 

「オレの部下どもは、兄貴らを止めんので忙しいからなぁ。ちょっと探し物手伝ってくれよ」

 

「……っ、誰がそんなことっ……」

 

ふと、朝陽の視界に男の背後が映る。逃れようのない現実が、そこに転がっていた。

 

「うっ……あっ……」 

 

吐き気がこみ上げてくるよりも早く、朝陽は男に突き飛ばされた。

 

「わりーんだけど、そういうリアクション見て面白がってる余裕もないんだわ。それと、お前に拒否権はない」

 

腰を地面に打ち付けたままの朝陽の方に、男がグッと屈んで顔を寄せる。

 

「……いやだ。」

 

かすれた声で、朝陽はなんとか口にした。

 

「……あんたの言うことなんか、聞かない……」

 

「はいはい、そいつはずいぶん勇敢なこった。つーか、何勘違いしてんのお前?拒否権はねーっつったろ」

 

まるで馬鹿でも見るような目をしながら、男はわざとらしくため息を吐いた。

 

「バカでも分かる吸血鬼クイ~ズ!さて、問題です。吸血鬼に血を吸われると、どうなっちゃうでしょーか!?はい、残念時間切れ!答えは、吸われた方も吸血鬼になる、でした!」

 

「だから、それがなんだってのよ……」

 

そんな脅しには乗らないというように、朝陽は相手を睨みつける。それが、精一杯の抵抗だった。

 

「さらにさらにィ~?吸血鬼は、自分よりも高位の相手の命令に逆らえまっせーん。わかる?お前が吸血鬼になったら、オレには逆らえないの」

 

「…………!」

 

ククッ、と、男は楽しげに喉の奥で笑う。

 

「状況が飲み込めた、って顔してんな」

 

再び、男は乱暴に朝陽の髪を掴む。そのまま、無理やりに引っ張って朝陽の顔を上に向かせた。

 

 

「いやっ!やめてっ!」

 

 

じたばたと、まるで悪あがきのように男の脚を蹴る。そんなことは意にも介さないというように、男は朝陽の首筋に、顔を近づけた。

 

 

しかし、ふとその瞬間に、男は動きを止める。

 

 

 

――蹴られている?この少女に?

 

――腰の骨に異常をきたしているのに?

 

 

ふつふつと、彼の中で疑問がわきあがる。

 

 

そもそも、乗客か、少なくともこの飛行機事故に巻き込まれたであろうこの少女が、なぜ『無傷』なのだ?

 

 

見たところ、彼女が身にまとっているどこかの高校の制服は、あちこちがずたずたに裂け、血の色で赤黒い染みをつくっている。

 

 

それなのにも関わらず、彼女の身体には『傷一つ付いていない』のだ――

 

 

「……まさか……」

 

 

知らず知らずのうちに、男はまじまじと少女のことを眺めていた。そして、うかつにも、彼女の髪を掴むその手の力を、ほんのわずかに緩めていた。

 

 

「やめて……」

 

 

そんな、男のわずかな精神の弛緩の合間に、朝陽は顔を下に向ける。二人の視線が、交錯した、その瞬間だった。

 

 

 

「『やめて』よ」

 

 

 

呟くような声で、彼女は繰り返した。

 

 

「……がっ……あ……!?」

 

 

突如、まるで電流が駆け巡るような、そんな衝撃が、男の全身を襲っていた。同時に、体全体の自由が利かなくなる。身体中の神経を支配されてしまったように、指一本すら動かせない。痛みを伴う痺れに、彼は全身を支配されていた。その中で、彼は朝陽の目から視線を逸らせない。

 

 

――その瞳は、深い海のような『藍色』をしていた。

 

 

当の朝陽本人は、眼前で虚を突かれたような顔で固まったままの男を見て、困惑していた。しかし、すぐさま自分が置かれている状況を思い出し、髪を掴んでいる男の手から逃れようと身体を後ろに引く。その手は、なんの抵抗もすることなく朝陽の髪を放した。 

 

「クソッ、このアマァ‼何しやがった、テメェ‼」

 

男が、憎悪の表情で叫ぶ。朝陽自身にも、何が起きているのかを呑み込めていない。しかし、これが紛れもないチャンスだということくらいは、彼女も理解していた。

 

 

だが。

 

 

「やれやれ、こんなところにいましたか」

 

コツ、と、革靴が瓦礫を踏むような音が、彼女のすぐ後ろから聞こえてきたのだ。ゾクッという悪寒を感じるのと同時に、彼女は振り返る。そこには、高そうな黒いスーツに身を包んだ男性が、優雅とも言える佇まいで立っていた。

 

見たところ、金髪の男よりも幾分か年上のようで、恐らくは20台後半くらいの容姿だろう。その顔は、なぜこんなみすぼらしい場所にこんな人が立っているのだろうかと不思議になるほど、あまりにも端整だった。片手にはステッキを持ち、空いた手でシルクハットのつばを押さえている様は、まるで絵本の登場人物が、そのまま現実世界に飛び出てきたかのようだ。

 

「その様子だと、『右腕』はあなたが取り込んだようですね、トーマ」

 

さして無関心な、そんな目を朝陽の後ろにいる金髪に向ける。それから、朝陽の方に視線を移すと、口元に上品な笑みを浮かべた。

 

「お騒がせしてしまい、申し訳ありません。愚弟がご迷惑をおかけしました」

 

言いながら、彼は帽子を取ると、丁寧に頭を下げる。

 

「何分、レディの扱いには慣れていないようでして」

 

その顔に浮かべられた笑みは、その辺の女子ならば思わずホイホイとついて行ってしまいそうな、そんな魅惑的な笑みだった。無論、朝陽はそんなことに現を抜かしていられるような状況ではなかったが。

 

愚弟、と、この男はそう言ったのだ。愚かな弟、と、自分の弟を謙(へりくだ)ってそう言ったのだ。自分は吸血鬼の兄だと、そう言ったのだ。

 

「おい……クソ兄貴!その女から離れろ‼」 

 

不意に張り上げられた声に、朝陽は振り返る。トーマと呼ばれたその男は、全身を痙攣させながらも、何とか身体を動かそうとしていた。 

 

「そいつは……オレのモンだ‼勝手に手ぇ出すな‼」

 

「……その焦りよう、やはり、『目』はこちらの方に……いや、『心臓』も、ですか」

 

ふむ、と興味深そうな視線を朝陽に向ける。 

 

「だから、さっさと離れろ!そいつはオレのだって――」

 

「……さっきから」

 

スッと、男がトーマの前に移動した。そして、素早くステッキの柄をみぞおちの辺りに叩き込む。

 

「がっ……」 

 

「女性を物扱いするなど、あなたは何様のつもりですか。まったく、あなたには品位がない」

 

呻くトーマの前で、男は冷酷な声で吐き捨てるように言った。

 

「あなたのお仲間も、品のない連中ばかりでしたが……あなたは、それ以下ですね」

 

「……っ!てめえ、オレの部下どもを……」

 

「まるで私が悪人のような言い方ですね。こうなるのは分かっていたはずですよ。恨み言のようなことを言わないでください。それとも、あなたは本気で、彼らに私が止められると思っていたと?しょせん、彼らのことも足止め程度にしか考えていなかったのでしょう?そんなことに部下の命を懸けさせるなど、あなたは、誰かの上に立つ器ではありませんね」

 

言いながら、まだ十分に身体の動かないトーマに背を向ける。余裕をたっぷりと含んだ笑みが、その顔に浮かんでいた。

 

「お見苦しいところを。申し訳ありません。そうそう、私としたことが、まだ名乗っておりませんでした。私は、ダンと申します。どうやら、母がお世話になったようで」

 

母、というその言葉に、再び先ほどの光景が浮かぶ。ちょうどトーマの後ろに、まだその惨劇が転がっているはずだ。

 

朝陽は、どうしていいのか分からず、ジリッと一歩下がる。この男には、トーマと違って話が通じる。どちらかといえば、先ほどの女性に近いタイプだろう。話の仕方によっては、このまま見逃してくれることもあるかもしれない。しかしなぜだか、どこか不安を拭い去れない感覚がしていた。

 

朝陽の視線の先で、女性が微笑んでいる。

 


その左肩から先が、なかったのだ。

 


その上、彼女の体の下半分が、見るからに重そうな、大きな金属片の下敷きになっている。それにも関わらず、彼女は大したことがないというように、笑っているだけだった。

 


 「もう、そんな顔しないで……って、本当にひどい怪我ね」
  

女性の右手がこちらに伸び、朝陽の顔に触れる。だがどう考えても、自分の額の怪我が、左腕のない女性に心配されるほどに深いわけはない。

 


「せっかく可愛い顔が、汚れちゃってるわ。それに、ずいぶん泣いたみたいね。これは明日、目が腫れるわよ」

 


冗談でも言うような口調に、朝陽は背筋を冷たいものが走るのを感じた。その言葉がまるで、死ぬことを受容したが故の、一種の余裕のようにも聞こえたのだ。

 


「それどころじゃ……ま、待っててください!今、それをどかしますから!」

 


朝陽は、思い通りに動かない体をなんとか動かして、彼女の上に横たわっている金属片に手をかける。

「……っ、……ぅっ……」

 


右足には力をかけないように、左足で踏ん張りながらそれを退かそうと試みる。だが、力を込めるのと同時に、再び額の傷口から血が溢れ出し、激痛が走った。

 


「……いっ……あぁっ!」

 


「やめなさい。そんなことしたら、あなたの傷の方が、悪化しちゃうわ」

 


女性が、穏やかな声で口にする。途端に、全身に寒気が走った。その言葉は、生きることを諦めた人のそれと、同じ意味を持っているように感じられたのだ。

 


「だ、だめです!そんなの……死んじゃったら……」

 


「その前に、あなたが死んじゃうわよ。安心しなさい、私はもうしばらく死なないから」

 


恐怖とも焦りともつかない感情が、彼女の中で膨れ上がる。そんなの、どう考えても嘘に決まっている。片腕を失くして、下半身を押し潰された人間が、生きていられるはずがない。ここで自分が助けなければ、この女性は間違いなく死んでしまうだろう。

 


そうすれば、自分は再び一人だ。この暗い空間の中で、一人きりになる。いつ来るかもわからない救助を待ちながら、ただ一人で耐えなければならない。ひょっとしたら、それも間に合わずに、息絶えてしまうかもしれない。

 


たった、一人きり。それは、あまりにも耐え難い。耐えられない。

 


 「別に強がりだとか、そういうのじゃないわ。それに、実を言うと両足も持ってかれているの。結構グチャグチャで……あまり見せたいものでもないわ。あなたも、女の子なら分かるでしょ?」

 


「け、けど……」

 


「あ、それとね、こういう時へたに動かすと、かえって余計に出血しちゃうかもしれないのよ」

 


その言葉すらも、自分の事を諦めさせるための口実のような気がして、朝陽は何度か逡巡する。しかし、彼女の言っている事が事実でもある以上、それを考慮しないわけにもいかず、しぶしぶと持っていた物から手を離した。

 


「あ、あの……せめて、傷口だけでも、何かで縛ったほうが……」

 


「いや、あなたはもうちょっと、自分のケガの心配しましょうよ?頭の出血はひどいし、右脚なんて、グチャグチャじゃないの」

 


なるべく考えないようにしていたことをサラッと言われてしまい、彼女はうろたえそうになる。それをごまかすように、彼女は携帯電話の光を女性の左肩に向けた。

 


「でも、そのままにしてたら、あなたの方が先に出血多量になって……」

 


服の袖に隠れて傷口は見えないが、今も彼女の服を濡らしている液体は、ポタポタと血溜りを作っている。

「……あれ……?」

 


最初は、彼女の見間違えかと思った。朝陽は、血溜りの方に携帯の光を向けて、それを凝視する。

 


「……黒……い……?」

 


間違いなく、彼女の傷口からこぼれるその液体は黒かったのだ。墨のような濃い黒の液体が、携帯電話の明かりに照らされて、不気味に浮かび上がっている。

 


「これ……どういうこと……」

 


説明を求めるように、朝陽は女性の方を見た。女性は再び困ったような笑みを浮かべて、顔を上げる。

 


「……こういうこと、かしらね」

 


女性は右手の人差し指を口の端にかけると、そのまま横へと引っ張った。その口の中には、人間のものとは思えないほどに鋭い犬歯が生えている。

 


否、「人間のものとは思えない」のではない。

 


黒い血も鋭い牙も、明らかに別の生き物のそれだったのだ。

 


「あなたは……いったい、何者なの……?」

 


「何者、と聞かれたら、化け物、としか答えようがないわね」

 


自嘲気味に笑いながら、女性はそう答えた。

 


「化け……物?」

 


「信じてない……いや、よくわかってない、って顔ね。まあでも、こればっかりは事実だから、しょうがないわ。普通の人間には黒い血は流れていないし、鋭い牙は生えていないし……」

 


そう口にしながら、彼女は左腕の袖を捲り上げる。

 


「傷口がものの数十秒でふさがったりしない」

 


その光景に、朝陽は思わず目を見張っていた。先ほどまで流血していたはずの左肩には、どこにも傷などなかったのだ。

 


「……うそ……」

 


「本当なら、ちゃんと元通りに『生えてくる』んだけどね。今は……まあ、ちょっと訳ありで、傷口がふさがってるだけだけど」

 


ポカンと口を開けたまま自分を見る朝陽に、女性はクスリと笑う。

 


「驚いた?怖くなった?世の中にはね、普通の人は知らないことが……知らなくていいことが、山のようにあるものなのよ。例えば……人を襲ってその血を飲むことで、人間よりも優れた肉体を保てる生き物……とか、ね」

 


女性の目が、朝陽を捉える。先ほどはなかった、妙に鋭い光が、その目に宿っている。

 


「それ……じゃあ、もうしばらく死なないっていうのは……」

 


「ええ、本当のことよ」

 


不敵に笑みを浮かべていられるのは、その言葉に嘘偽りがないからなのだろう。それを踏まえた上で、朝陽は呟いた。



「そっか……よかった……」

 


「……は?」

 


拍子抜けしたように、女性は聞き返した。

 


「あの……私、自分が血を吸うこととか……不死だってことをほのめかしたつもりだったんだけど?」

 


「はい。つまり、普通の人とは違うってことですよね。このくらいじゃ、死んだりしないんですよね?」

 


「……いや……うん、まあ、そうなんだけど……」

 


困ったような様子で、女性は言い淀む。調子を狂わされたことに思わず頭をかきながら、朝陽に視線を向ける。

 


「その反応は予想外だったというか……もっと、こう……素直に怯えられた方が、こちらとしては反応に困らないというか……」

 


「……はい?」

 


「……いや、なんでもないわ」

 


何かを諦めたように、女性はため息を吐き出した。それから朝陽の事を、しげしげと観察でもするように眺める。

 


「……怖くないの?」

 


「まあ……こんな状況ですし……どちらかというと、この場に一人でいる方が、怖いです。今でも、こうして会話できてるだけで、だいぶ助かってますし……」

 


あんまり怖がってる余裕もないから、と言って、朝陽は苦笑した。

 


「あなた、変わり者ね」

 


「そんなことないですよ。ただちょっと……暗いとこと一人ぼっちは……苦手なもので……」

 


「……なにやら、あなたも訳アリそうね?」

 


女性の言葉に軽く頷きながら、朝陽は遠いものを眺めるような目をする。

 


「私、小さい頃親から虐待受けてて……父親が、気に食わないことがある度に私のことを部屋に軟禁してたんです。窓のない暗い部屋に。平気で何日間も……もちろん、ご飯抜きで」

 


朝陽は右脚を引きずるようにしながら、女性のすぐ右隣まで移動すると、瓦礫に背中を預けるようにして座りなおした。

 


「一度死にかけて、警察沙汰になったんです。近所の人に通報されて……」

 


「……母親は?」

 


「いましたけど、母もDV受けてて、逆らえなかったんです。それで、両親は離婚して……その頃のことがトラウマで、暗いとこと一人が、ダメになっちゃって。以来、寝るときもオレンジ色の電気が消せないし、一人で部屋にいる時は、ずっとラジオとか、音楽とかつけっぱなしで……」

 


「ひどい親もいたものね。まあ、人のこと言えないけれど。私はだいぶ放任主義だったし」

 


女性はため息を吐きながら、右手を朝陽の頭の上にポンと置いた。

 


「実を言うとね、私にも子供がいるの。それも、7人も。これでも色々と忙しくて、結局面倒なんて見てあげられなかったんだけど。まあ、だったら産むな、って話よね。本当に無責任。でも、産まないって選択肢が、当時の私には与えられていなかった。結果、物の見事に曲がった子たちばかり。私の自業自得なんだけどね。……時々、こう思うの。こうしてあげれば、変わっていたかもしれない、って」

 


 女性の手が、朝陽の頭をなでる。最後にこんなことをされたのがいつだったか、彼女には思い出せなかった。あるいは、ひょっとしたらこれが初めてだったのかもしれない。

 


「あの……こんなこと聞くのもなんですけど、吸血鬼なんですよね?」

 


「ええ。一家全員、血を吸わないと生きていけない、夜の怪物よ。……って、その血を吸う張本人の至近距離で、よく尋ねられるわね……」

 


 朝陽は微笑みながら、女性の方を向く。

 


「だって、あなたは悪い人には見えないし……人の中には、化け物だとか、そんなものよりもずっと悪い人がいっぱいいますから……」

 


「それには同意するけれど、そういう次元の話じゃないでしょうに。……それにしたって、どうしてこうも落ち着いていられるの?」

 


「たぶん、私にとって、人間も吸血鬼も関係ないんだと思います。重要なのは、こうやってコミュニケーションを取れることだから。少なくとも私は、分かり合える相手となら、こうして落ち着いていられます」

 


なんの臆面もなく言う朝陽を前にして、女性は返答に詰まっていた。ただの少女にこんな言葉を言わせるほど、一人でいるよりも化け物とでも一緒にいる方がマシだと思わせるほど、この娘のトラウマは深いものなのかと、驚いていたのだ。

 


 「……たぶん、分かり合うことは無理でしょうね。っていうか極力、関わり合うべきではないと思うのよ、私たちは」

 


 「大丈夫ですよ。きっと……あ、あれ?」

 


 その時不意に、朝陽の体が傾いた。女性は、自らの方へと倒れそうになる朝陽の体を、抱えて受け止める。

 


「なんか……クラクラする……」

 


「出血多量よ。もう動いちゃだめ。救助が来るまで……」

 


そう言った瞬間、女性はハッと、何かに気づいたように息を呑んだ。そして、崩れかかった建物の天井の方を見上げながら、悲しげに微笑む。

 


「フフ、どうやら、私の方はもうお迎えが来たみたいね……このまま、巻き込むわけにもいかないし……さて、どうしたものかしら」

 


「おむ……かえ?」

 


女性は傍らの朝陽に視線を戻すと、慈しむように、彼女の髪をそっと撫でる。

 


「そういえば、まだ名前を聞いてなかったわね。よかったら教えてくれる?」

 


「……あさひ」

 


ぼうっとする意識の中で、女性がなぜそんなことを尋ねるのかを不思議に思いながら、彼女は答えた。

 


「そう、いい名前ね。けど、あなたはやっぱり、私に関わるべきではなかったわ。だって、夜を生きる吸血鬼は、朝を照らす光とは相容れないもの」

 


 女性はそう微笑んだ後で、朝陽の頭に右手を回した。

 


「あさひちゃん、ちょっとこっち向いてくれる?」

 


「……?はい……?」

 


言われるままに女性の方を向いた朝陽の、ちょうど額の傷のある部分に、温かい何かがそっと触れる。それが女性の唇だと気づくのに、彼女はわずかに時間を要した。不思議と、先ほど自分で触れたときのように痛みが走ることはなく、ただ温かく優しい感触だけを感じる。

 


「……えっと……?」

 


程なくして、女性の顔が朝陽から離れると、彼女は照れくさそうに笑った。
  

「ちょっとした、おまじない。これからあなたが、光のある道をいけるように。……なんて、吸血鬼に言われたんじゃ、説得力に欠けるかしら」

 


「あの……なんで急に、こんな?まるで、もう……」

 


 少し不安げな表情になる朝陽に向かって、女性は静かに頷いた。

 


「うん。悪いんだけど、私は先に行かないといけないみたい。って、そう怯えた顔をしないで。しばらく隠れてれば……たぶん、すぐにあなたの助けがくるから」

 


「……隠れる?……え?何から……?」

 


 戸惑う朝陽をよそに、さて、と言って、女性は朝陽の頭から手を離した。名残を惜しむような眼差しに、朝陽の不安感は一層駆り立てられた。

 


「じゃあね、あさひちゃん。最後にあなたと話せて、気が紛れたわ。ありがとう」

 


女性の腕が、朝陽の腰の辺りを抱えるように当てられる。

 


「ちょっと痛いと思うけど、我慢してね。ちゃんと静かにしてるのよ。あ、それと着地には気を付けて」

 


「へ?着地……って!?」

 


 言うが早いか、朝陽の体は、ぐんと宙に浮いていた。砲台か何かで打ち出されたかの如く、内臓がせり上がるような浮遊感に襲われる。女性は右腕一本のみで、朝陽のことを放り投げたのだ。

 

 

 

 

―7―

 

 

 

 

「……痛……っ」

 

十条朝陽は暗闇の中、激痛で目を覚ました。どうやら、しばらくの間気を失っていたらしい。周囲は真っ暗で、何も見えなかった。ここがどこなのかも分からない。ぼんやりとした思考の中で、彼女は携帯電話を取り出した。薄ら白い光が、彼女の顔を照らし出す。そのまま、何気なく周囲に光を向けた。

 

見えたのは、ただの瓦礫の山。よくよく見てみると光の奥の方に、飛行機の翼が、モニュメントのように地面へ突き刺さっていた。恐らくあれに吹き飛ばされて、周囲の壁ごと建物の奥に押し込まれたのだろう。即死しなかったことが、嘘のようだ。

 

「……ッ!いっ……」

  

体を起こそうとして、再び激痛に襲われる。じわっと、彼女の目に涙が浮かんだ。尋常ではない痛みに、表情がゆがむ。彼女は痛みの元である右脚を照らして見ようとして、やめた。傷を見てしまったが最後、自分が動けなくなってしまうのが、何となく彼女にも分かっていたのだ。

 

しばらく痛みに耐えてじっとしていた彼女は、震える指で携帯電話を操作し始める。こんな時、どこに連絡すればいいのだろうか。警察か、消防か、あるいはそんな連絡はそもそも意味がないのか。友人に電話すれば、何か励みの言葉をもらえるだろうか。先輩に連絡すれば、安心させてくれるような言葉をかけてくれるだろうか。兄に連絡すれば――そもそも兄は、無事なのだろうか。

 

しかし彼女はすぐに、指先に触れる携帯電話の画面に、違和感があることに気づいた。

 

「画面、バキバキだ……」

 

大きなヒビが、画面全体に広がっている。最初のうちは辛うじて反応していたものの、段々と画面の動きが鈍くなり、しまいには固まってしまった。これで携帯電話は、ただの懐中電灯と大して変わらなくなってしまった。それでも、明かりの役割を果たしてくれているだけ幾分マシだろう。

 

彼女は、その光を頼りに周囲を見渡す。しかし、広く、荒廃したその空間には、誰もいなかった。

 

「誰か……誰かいませんか!?」

 

彼女は、できる限り大きな声で叫ぶ。もしかしたらこの位置から見えないというだけで、どこかに人がいるかもしれない。

 

「いたら、返事をしてください!誰か……」

 

もしかしたら、そこの瓦礫の向こう側に、誰かがいるかもしれない。そう思いながら何度も、誰もいない物陰を覗き込む。内心ではすでに気付きつつあるはずの、受け入れたくない事実を否定したいがために、彼女は声を張り上げていた。

 

「誰か……」

 

返事はない。誰も、彼女に応える者はいない。外とも連絡がつかない。完璧に分断されてしまっている。この暗い空間の中で、彼女は完全に一人だった。

 

「ははっ……笑えないって、これ」

 

自嘲するように笑った後で、彼女の表情がひきつった。

 

「お願い……誰か返事してよ……」

 

彼女は自分の体を抱き締めるようにうずくまると、ぶつぶつと呟く。

 

「嫌だよ……一人にしないでよ……もう、一人は嫌なのに……」

 

その時、不意に瓦礫が崩れる音がして、弾かれたように顔を上げる。積み重なった瓦礫の中に、人の上半身のようなものが見えた。暗い中で容姿までは見て取れないが、うな垂れるような格好で、こちらに向かって手を伸ばしている。

 

 「だ、大丈夫ですか!?今、そっちに行きますから!」

 

大きく声を上げながら、床の上を這うようにして進む。途中、散乱する瓦礫で体を何箇所も切ったが、そんなことは気にせずに、彼女は体を引きずった。動かない右脚も、全身に走る激痛も、もはや気にならなかった。そんなことよりも、自分がこのだだっ広い空間の中で一人ではなかったという事実の方が、よほど重要だった。

 

「動けますか!?今……」

 

どうにかその場までたどり着くと、瓦礫の中からはみ出した頭部に向かって、携帯電話の光を向ける。その瞬間、彼女は悲鳴を上げていた。

 

顔が、なかったのだ。

 

まるで、やすりか何かで削り取られたかのように、顔が磨り減ってしまっている。血で赤黒く染まったその顔からは、所々骨が露出していて、光を受けたそれらは、暗闇の中で白く浮き上がっていた。中身が零れ落ちた眼窩と、収まるべき場所を失った舌がダラリと垂れているのを見た瞬間、朝陽は嘔吐感に口元を抑える。

 

「きゃっ……!」

 

驚いて後ろに下がった拍子に、真下から瓦礫の崩れる音が聞こえてくる。直後、ちょうど小高い丘のようになっていた瓦礫の山は、ガラガラと崩れていった。

 

突起物の多い瓦礫の斜面を、朝陽の体が転がり落ちる。悲鳴を上げる暇はなかった。気がつけば、何か鋭利な物に頭を思い切り打ち付けて、意識が飛びそうになっていたのだ。

 

「いっ……つ……」

 

投げ出された朝陽の体は、朦朧とした意識の中、冷たい床材の上に、仰向けに転がっていた。携帯電話はどこかに落としてしまったようで、周囲がひどく暗い。視界には、ぼやけた天井だけが映っている。

 

薄暗い空間。叩きつけられた痛み。誰もいない場所。この光景に、彼女は既視感のようなものを覚えていた。

 

 

幼少期の頃、十条朝陽は、虐待を受けていた。彼女の父親は、事あるごとに妻や娘に手を上げた。そして、散々痛めつけた後に、彼女たちのことを暗室へと閉じ込め、軟禁した。後に近隣の住民によって通報され、彼女の父親が傷害罪で逮捕されるまで、何度も何度も、彼女は殴られ、閉じ込められた。

 

彼女を診た医師の口から出た言葉は、PTSD。外傷後ストレス障害だった。

 

「ごめんなさい……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいっ……!ちゃんと言う事聞くから!何もいらないから!何も言わないから!いい子にするから!だからもうやめて!暗いのはイヤだ!痛いのはイヤ!一人はイヤ!イヤなの!怖いの!出して!出してよ!お願いだからここから出して!」

  

暗所、痛み、孤独。これらは未だ、数年の歳月を経た今でも、彼女がパニックを起こすための要因だった。

 

子供のようにうずくまりながら、ブツブツと呟く。異様に呼吸や心拍が速くなっていく中、目からボロボロと涙が零れていった。不意に、それに混じって、額を何かがツーッと伝う。手で拭ってみると、まだ温かいそれは、赤黒い血液だった。思わず、傷口の方に触れてしまう。その瞬間、自分のものとは思えないほどに無様な悲鳴が上がった。

 

指先が嫌な感触を覚えるのと同時に、全身を電流が駆け巡るような痛みに襲われる。どうやら、かなり深く切れているらしい。もしかしたら、骨にまで届いてしまっているのではないだろうか。そんな考えが、余計に恐怖を煽る。もはや、息を吸うのですら、苦しくてやめたくなっていた。

 

 

「――大丈夫。すぐに助けは来るわ。だから、安心して、ゆっくり息をしなさい」

 

 

その声が聞こえてきたのがあまりにも唐突すぎて、一瞬本当に息をするのを忘れていた。弾かれたように声のする方向を振り返ると、近くの物陰に、女性の横顔が見える。40歳くらいだろう。見る限り、日本人の顔立ちではない。長い薄紅色の髪が、乱れて顔にかかっている。横顔だけでも、それがかなり整った容姿であることが分かった。

 

「こんばんは、お嬢さん。ずいぶん派手に落ちてきたみたいだけど、大丈夫?」

 

「え……あ……」

 

返す言葉が、咄嗟に出てこない。というより、目の前の現状に、どう反応したらいいのか分からなかった。

 

「あら、頭を打ったの?ずいぶん傷が深そうだけど……私の言ってること、分かる?」

 

「あ、はい!大丈夫です!ただ、えっと……その……」

 

慌てたように何度も頷いた後で、十条朝陽は口ごもる。あまりの安堵感に、何から口に出していいものか、まるで分からなかったのだ。感情のままに泣き出してしまえば楽なのだろうが、それが相手を困らせる事を分かっていた彼女は、無理にでも言葉を探そうとする。

 

「……さっきの、聞こえてました?」

 

咄嗟に自らの口から出てきた言葉に、朝陽は思わず顔を赤らめる。こんな状況でも真っ先に人の視線を気にする辺り、兄に反論できないと、内心でため息を吐く。もはや、動かない右脚や額の怪我よりも、そちらの方が気になって仕方なくなっていた。

 

「まあ、極限状態になったら、誰だってそうなるものよ。さて、怪我を見てあげたいところだけど、ちょっと、私も動けない状況なの。もし動けるなら、こっちに来てもらえるかしら?」

 

朝陽の内情を察したように、女性は優しく微笑を浮かべている。何も気にしていないという口調が、だいぶありがたかった。極論、朝陽は悪い意味で注目を浴びることや、物笑いの種になることを、ことごとく嫌っているのだ。

 

彼女は右脚に気をつけながら、ゆっくりと体を起こした。立ち上がるのが困難だったため、そのまま這うような姿勢で女性の方へ向かう。他人には到底見せられない格好に、彼女は再び頬が熱くなるのを感じていた。

 

「床、ひどく散らかってるから、気をつけてね」

 

一際大きな瓦礫の陰から、こちらを気遣う声が聞こえてくる。そこへ向かう途中、彼女は自分の携帯電話が、その近くでぼんやりと光を放っているのを見つけ、手に取った。どうりで、闇の中でも女性の顔がはっきり見えたわけだと、朝陽は納得する。

 

だが、その光が瓦礫の陰を照らし出した瞬間、朝陽は息を呑んでいた。

 

「……そん、な……」

 

 

 

 

―4―

 

 

教室に入る時に重要なのは、タイミングである。いや、正確には時間帯と呼んだほうが正しいか。好ましいのは、まだ誰も教室にいない時間か、あるいは教室に十数名ほどの生徒がいる時かの二択だ。

 

もし仮に、生徒が数名しかいない状況で教室に入ったとしよう。すると、人が少ない状況下では、必然的にこちらに意識が集中してしまう。その場合、挨拶した方がいいのかどうなのか、互いに困惑してしまい、微妙な空気になる。

 

挙げ句、待っているのは、向こうが一応してくる挨拶にこちらが会釈を返すという展開だ。そして、他の生徒が来るまでの間、気まずい雰囲気になってしまうのだ。

 

 

そこで、プランA、教室に誰もいないうちに登校する。言うまでもなく、教室に誰もいなければ、挨拶する相手もいない。あとは、他の生徒が来るまで寝ているふりでもしていればいい。わざわざ寝ている相手を起こしてまで挨拶してくる生徒もいないだろう。

 

ただ、毎回必ず一番初めに教室に来られる保証など、やはりどこにもない。もし曲がり間違って、教室内に一人か二人だけ生徒がいた場合、事態は深刻だ。

 

 

そこでお勧めは、プランB、教室に十数名ほどの生徒がいる時に教室に入る。教室に十数名ほど生徒がいる状況だと、生徒たちはいくつかのグループを形成し、雑談が始まるからだ。

 

やれ昨日のテレビだの、やれ宿題写させろだの、隣のクラスのタナカくんとサイトウさんがいい雰囲気だのと、現役高校生どもはいくらでも話題に事欠かない。

 

注意力が散漫になったその隙にサッと侵入し、席につく。あとは、寝たふり、または読書を開始すれば完璧だ。ただ、これはある程度気配遮断スキルを持っていることが前提であるため、やや玄人向きであると言えるだろう。

 

 

 

今日の十条九も、プランBを用いて、誰にも気づかれることなく席に座っていた。彼は早速昨日借りたばかりの本に目を通している。さらに、彼はイヤホンまでつけており、もはや彼に話しかけようとするものはいないだろう。

 

ただ、このプランBを使用するのに当たって、一つ注意点がある。それは、間違ってもこの時、ゲーム機や漫画のように人目を引くものを用いないことだ。スマートフォンの普及により、一昔前に比べてその類の物が下火になっているせいもあるのか、物珍しさに近寄ってくる輩は、思いのほか多い。

 

結果、待っているのは「何やってるの?」という死の宣告だ。その次には「見せて貸して触らせて」。あるいは、「それ、俺もやった/読んだ事あるわ!」などと言って、頼んでもいないコミュニケーションを持ち掛けてくる事もある。ぼっちにとって、それはもはや抗うことのできない絶望だ。暴力だ。

 

 話しかけてくる当人は親切のつもりなのかもしれないが、そもそもこちらは、そういうコミュニケーションに苦手意識を持つが故に、一人で時間を潰すための道具として、ゲーム機や漫画を持ち込んでいるのである。別段、やっているゲームや読んでいる漫画から話の輪が広がり、友情が芽生えるような展開など微塵も期待しているわけではないのだ。その辺を察してほしいと、十条九は常々思う。

 

 

ホームルームが終わり、一時間目の授業が始まる。彼は、いつものように教科書を取り出した。十条九は、今まで忘れ物などしたことがない。教科書もノートも、宿題も忘れたことがない。ぼっちにとって、忘れ物は天敵といっていいだろう。教師が生徒を指名して問題に答えさせるなど、授業中によくあることだからだ。

 

そして、その時の決まり文句がこうだ。「教科書の○○ページの第○問」。または、「教科書○ページを音読しろ」という場合もある。この時、仮に教科書を忘れていたとしたら、どうなるだろう。その次に教師が浴びせてくるのは、「なんだ、教科書忘れたのか」という言葉。この一言で、クラス中の意識を悪い意味で集めてしまう。

 

そして、とどめの言葉。「隣の人に見せてもらいなさい」。なんと恐ろしいことだろう。無論、当てられなければどうということはないのだが、そういう時に限って、教師は「狙ってんじゃねえのかコイツ」と思えるほど正確に、教科書を忘れた生徒に当ててくるのだ。

 

 

その点、ぼっちを極めし者、十条九に抜かりはない。彼は、教科書を忘れないことはおろか、すでに今日進むであろう授業内容の分の問題を、家で終わらせてきている。これで、どこを当てられても大丈夫だ。

 

しかし、それも杞憂だったようで、授業は着々と進んでいき、彼は一度も当てられることなく、いつの間にか4時限目になっていた。

 

今日の国語の授業は、主に新しく入った単元の音読だ。無論、彼は新出漢字の読み方を全て調べてきたため、どこを当てられてもすらすらと読める自信があった。何より、元々彼は漢字に強いのだ。

 

この授業中、彼が音読させられることはなかったが、彼の隣の席の生徒が当てられた。昨日の面談で、彼が名前を拝借した学級委員長の女子だ。その彼女が、音読の前にこちらを向いて小声で一言尋ねた。

 

「ねえ、十条くん、この漢字って何て読むの?」

 

心臓が止まるかと思った。あまりにも普通に話しかけられたせいで、一瞬友達にでも声をかけられたのかと思った。というより、自分の名前を覚えている生徒がいるなどと、思ってもみなかった。

 

「……う、畝(うね)」

 

なんとかかろうじてそれだけ答えると、彼女は「ありがとっ」と何でもないように礼を言って、音読を始めた。

 

本当に心臓に悪い。

 

 

4時限目の授業が終わって、昼休みになる。これもまた、ぼっちにとっての試練の一つである。昼休み、つまりは昼食の時間。教室の中ではグループが生成され、何人かの生徒は食堂か購買へと向かう。

 

言うまでもなく十条九は、その輪には入らない。彼は、黙って席を立った。このまま自分の席で食べるわけにはいかないのだ。目立って仕方ないし、自分の席の周囲にグループが生成された場合、邪険にされるのは目に見えている。

 

「あ、十条くん」

 

再び先ほどの女子の声がして、振り返る。声の方を見ると、委員長は他の女子数人とグループを作りつつあった。そんな状況で話しかけないでほしい、と十条九が内心で呟いたのは、彼女の周辺にいる数人の生徒が、何事かとこちらを見ていたためだ。

 

「さっきはありがとね。ホント助かった」

 

「……あ、うん」

 

それだけ答えて、彼は逃げるように教室を出て行った。まさか、一日で二度も同じ人と会話するとは思ってもみなかった。驚愕である。

 

 

それはともかくして、あらかじめ買っていたパンとパックジュースの入ったビニール袋を片手に、十条九は廊下を急ぐ。その間、弁当の入った袋を持った男子生徒が、一人トイレに入っていくのを目にした。

 

「……便所メシ、か」

 

それを見送りながら、彼は眉をひそめる。十条九にとって、便所メシとは若輩者のすることであった。ボッチだからという理由で、不衛生な上に狭い個室で食事をするなど、理不尽極まりない。

 

大方、「中学の頃には友達いなかったけど、高校に入ったらきっと……」と期待していた新入生が、案の定誰とも混じれずに、結局のところそこへ行き着いてしまったのだろう。大体、中学の頃に友達がいなかった奴が、高校でいきなり友達をつくるというなんて、できるはずがないのだ。

 

そんなものは妄想だ。漫画やアニメの世界の話だ。都市伝説だ。そんなことができる奴なら、そもそも中学の時に友達の一人くらいつくれている。入学当初に友達をつくる努力をする暇があるなら、まずは一人で昼食を食べるためのスペースを探すべきなのだ。

 

などと考えている間に、十条九は図書室のある別館の、裏手に来ていた。そもそも人の出入りの少ない別館の、更に裏側だ。本館の窓からもこの位置は見えず、その上風通しもよく、日の当たりもいい。まさに、ぼっちメシには絶好の場所だ。入学当初、即座にこの場所を確保できたことは、まさに行幸と言っていいだろう。

 

彼は、あらかじめ買っておいたパンをかじりながら本を読む。飲み物は、パックに入った抹茶オレ。この瞬間が、彼は存外嫌いではなかった。

 

「えー、行けないってどういうことぉー?マジありえなーい」

 

不意に聞こえてきた声に、十条九は顔をしかめる。一気に、台無しだった。あまり頭のよろしくなさそうな喋り方が、だんだんと近寄ってきている。

 

この状況で推測されるのは、図書室で電話がかかってきた誰かが、それに出るために建物の裏手に回ってきたという状況だ。このままだと、鉢合わせになってしまう。ぼっちメシの現場を目撃されること、それはぼっちにとっての死を表す。世間の常識だ。

 

しかし、この程度で動じる彼ではない。彼は残りのパンを口に詰め込むと、抹茶オレでそれを飲み干し、声が聞こえてくるのとは反対方向に歩み出した。そして、声の主が裏側に入ってくるのと同時に、絶妙のタイミングで建物の表側へ。完璧である。

 

「えー、それやばーい。マジありえなーい」

 

マジでありえないのはお前の方だ、っていうか喋り方が一昔前のギャルっぽいな、と思いながら、彼はため息を吐いた。これで、彼が残りの昼休みの時間を過ごすための安息の地は失われてしまったのだ。

 

図書室に行こうかとも考えたが、生憎ゆっくり本を読んでいる時間は無い。微妙に残ってしまった時間を消費するため、彼は散歩がてら、遠回りしながら教室へ戻ることにした。これもまた、ぼっちに特有の行動と言えるだろう。

 

休み時間中に、当てもなく一人で校舎内を散歩している人を見かけることがあるかもしれない。一度目は偶然かもしれないが、もし同じ人と二、三回すれ違ったら、その人は恐らく、教室内で過ごす時間を減らそうと、無意味に校舎内を歩き回っているぼっちだろう。見かけた時は変に声をかけようとせず、そっと見なかったふりをしてあげるといい。

 

 

 

彼の教室は二階にあるが、階段をすぐには上らずに、一階の廊下をゆっくりと歩く。ここには、主に三年生の教室が並んでいた。

 

「ね、朝陽ちゃんも行くよね?」

 

 そのため、その話し声が聞こえてきた時、彼は思わず立ち止まっていた。

 

「あ、ごめんなさい。私、今日は用事があって」

 

最初は同名の別人かと思ったが、声を聞いて、それが自分の妹のものだと確信する。チラッと近くの教室に目をやると、複数の三年生に囲まれて、妹が苦笑していた。いったいどういう組み合わせだろうかと、聞き耳を立てる。

 

「えー、朝陽ちゃん行かないの?じゃあ、俺も行くのやめよっかなー」

 

「だよな、女の子いないと盛り上がんないしなー」

 

「あー、ひどーい!私たちは女の子じゃないっていうの?」

 

男子のそんなやりとりに、女子からブーイングが起きる。いかにも若い男女たちの会話というか、自分には縁の無さすぎる会話だった。

 

「しょーがない。朝陽ちゃんにも用事の一つや二つくらいあるでしょ。ってか、あんた昨日も朝陽ちゃんのことカラオケに誘ってなかった?」

 

「あれはバスケ部と女バスの連中でカラオケ行こうって話になったから、朝陽ちゃんも呼んだだけだよ」

 

なるほど、昨日帰りが遅かったのにはそんな理由があったのかと、十条九は内心呟く。

 

「ってか、昨日の今日でまた誘うってのはどうなわけ?ちょっと非常識じゃない?」

 

「あ、いえ!別にそんなことないですよ!何もなければ、行きたかったんですけど……あいにく、家の方の都合で、どうしても行かないといけなくて。本当にごめんなさい」

 

真摯に謝る姿を見て、三年生たちは逆に慌てた様子で、そんなことないだの何だのと口にしている。彼らも、ずいぶんとたらしこまれたものだ。

 

「じゃあ、また今度誘ってくださいね」

 

そんなことを言って、朝陽は教室から出てくる。ドアをくぐる時に、一瞬彼女がため息を吐くのを、十条九は見逃さなかった。

 

「……って、うわぁ……何でお兄ちゃんがここにいるの?」

 

「ああ、ちょっと通りがかってな」

 

彼は、経験から瞬時に察する。今の「うわぁ」は、本気で引かれた時のそれだった。道端に落ちていたガムを踏んだ時とか、急いでいるのに電車が混んでいる時に出る「うわぁ」だ。

 

「ふーん、あ、そう。じゃあ、また後でね」

 

「ああ」

 

しかし、そう言って互いに歩を進めたのは同じ方向だった。

 

「……ねえ、なんでついて来るの?」

 

「その言葉、そのままそっくり返す。仕方ないだろ、二年生の教室は二階なんだから」

 

彼は、見えてきた階段を指して言う。

 

「そんなこと言うなら、一年の教室は三階だし。お兄ちゃん、別な階段通ってくれない?お兄ちゃんと一緒に歩いてるところ、誰かに見られてウワサになるの、イヤだし」

 

「噂?……ぼっちとビッチ、とか?」

 

「はぁ?」

 

彼がなんとなくボソッとこぼした言葉に、即座に朝陽が反応する。

 

「ねぇ、ぼっちっていうのがお兄ちゃんのことだってのは瞬時に分かるけど、私のことビッチとか言うのやめてくれない?っていうか、実際ビッチじゃないし。ちゃんと、身持ちは堅いんだから」

 

彼女は不快感を露にした目で、こちらを見ていた。

 

「ただの八方美人。別に、男にだけ取り入ってるわけじゃないし」

 

「自分でそれを言いますか……まあ、言われてみれば確かにそうだな。結局のところ、お前は他人から嫌われるのを嫌がっているわけだから、ビッチなんていう、他人から白い目を向けられるようなレッテルを、防がないはずはない。誰にでもいい顔をしつつ、特定の誰かに気のある素振りは見せない。つまり、誰にでも好かれそうな『いい後輩』を演じている。そうやって、うまいことやってるんだろう?まったく、家でのお前を見ている俺としては、感心すら覚えるぞ」

 

彼女の言っていることは本当だろうと、十条九は確信していた。彼女が求めているのは友達でも、先輩でもなくて、集団そのものなのだ。つまり、何かのグループに属しているという事実だけを、彼女は欲しているのだ。

 

何なら、彼女は異性と交際したことすらないと、断言できる(十条九とは異なる理由で)。そんな、いかにも周囲にいざこざを生みそうなことを、彼女にはできないはずだからだ。

 

「それ、実はバカにしてない?」

 

「してないぞ。少なくとも俺には、そんなことできないし」

 

二階につくと、十条九はぼやくように言いながら、自分の教室へと歩き出す。

 

「それはそうでしょ。お兄ちゃんがそれをやったら、気持ち悪いだけだろうし」

 

背中にかけられた声に、思わず立ち止まる。さすがに言われっぱなしのままでは格好がつかなかったので、何か言い返そうと口を開く。

 

「でも、それも大概にしとけよ。度が過ぎると、八方美人は一瞬で嫌われ者になるぞ」

 

「……ぼっちが言うと、説得力があるわね」

 

そこまで納得されると、こちらとしても反応に困った。

 

「忠告どうも、お兄ちゃん」

 

「ああ、後でな」

 

彼らはそう言って、別々の方へ歩き出した。歩きながら、どうしてこうも正反対なのだろうと、互いに思う。同じ環境で育ちながら、自分たちは鏡に映したように真逆だ。過度なストレスの中で、兄は一人でいることの気楽さを覚え、妹は群れることの快適さを覚えた。その結果、今の状態がある。

 

奇妙なものだと、互いに思った。

第1章 邂逅 ―Happening―

 

 

 

ベルリンでも、何も変わりがなかった。その前のスイスでも。人は、生まれつき孤独なのだ。

 

―アルベルト・アインシュタイン(理論物理学者/1879~1955)―

 

 

 

―1―

 

 

 

「じゃあ、他に何か持っている資格とか、大会で賞を取った事とか、そういうのある?」

 

放課後の誰も残っていない教室で、一人の生徒と向かい合って座った男性教師が尋ねた。つまりは、内申書に書けるようなネタを提供してくれ、 という意味合いなのだと察すると、しばらく考えた後で、少年は口を開く。

 

「英検準2級、漢検準1級、数検3級……あ、それと世界遺産検定3級を」

 

果たしてそれが将来の何に役立つのかは知らないが、少年が列挙したそれを、教師はさも重要そうに書類に書き込んだ。

 

「部活とか委員会とかは入ってないんだっけ?」

 

「はい。時間とかお金とか、あまり家の方に負担をかけたくないんで」

 

「そ、そうか……まぁ、そういうのが全てじゃないからな。学生の本分は勉強なわけだし!ははは」

 

ごまかすように笑いながら、また、教師は何かを書き込む。乾いた笑い声を聞きながら、少年は興味のなさそうな表情で黙っていた。

 

深く言及してこないのは、おそらく『家庭の事情』を知っているからなのだろう。気を遣ってくれていると言えば聞こえはいいが、要は面倒ごとに首を突っ込みたくないだけだ。

 

無論、突っ込まれたところで何かが改善するわけでもないだろうし、むしろ家に居づらくなるという結果が目に見えていたので、彼を責める気などさらさらない。さらに言うなら、放っておいてくれて、ありがたいとすら思う。

 

 

その後、「よく話す友人は?」「家が近い友人は?」「休日一緒に過ごす友人は?」と尋ねられたが、それぞれ、今日の日直だった奴、学級委員長、別のクラスのタナカくんと答えた。

 

すべて、でっち上げである。

 

クラスの中で覚えている名前が極端に少なかったため、三番目の質問にはタナカくんという架空の人物を作り上げざるを得なかったが。教師は特に疑う様子もなくそれを書いていった。

 

「じゃあ、最後に進路の事なんだが……卒業後の事は、何か考えてるか?将来の夢とか、何かあるか?」

 

「まだ具体的に決めたわけじゃありませんけど、大学に行った後は、公務員に」

 

とりあえず、当たり障りのなさそうなところを答える。すると、教師は訳知り顔で、納得したように何度か頷いた。

 

「おー、お前も公務員か。最近多いんだよなー」

 

「不景気ですから。夢見るよりも安定した収入が欲しいんですよ、みんな」

 

「な、ほんとに嫌な時代だなー」と不満げにこぼしながら、教師は書き込みを終えた書類から顔を上げる。どうやら、全ての質問事項に回答しきったようだった。それから、「何か困ったことがあったら」という中身のない言葉で、面談を終える。

 

「じゃあな十条。……そういえば、お前下の名前なんて読むんだっけ?」

 

 「……ヒサシ、です」

 

教師は「あぁ、そうだった」と呟いて、書類にある『十条九』という文字の上に、『トオジョウ ヒサシ』と読み仮名を乱雑に書き込んだ。

 

 

 

 

―2―

 

 

 

 

十条九は下足箱の前で靴を履き替えると、そのまま別館である図書室の方へと足を運ぶ。ちょうど去年の今頃、一年の担任とも同じような応対をした事を思い出し、彼は自身でも気付かぬ内に、ため息を吐いていた。すると道すがら、彼の足元へと硬式のテニスボールが転がってくる。

 

「お、ちょうどよかった。ボール取ってくんない?」

 

近くのテニスコートから、フェンス越しに茶髪の少年が叫んでいる。確か、同じクラスの生徒だったような気がする。

 

「ワリィワリィ、俺が打ち上げちゃって……」

 

さらにもう一人、整髪量で髪をツンツンに立たせた少年が、その隣に駆け寄ってくる。いかにも「チャラい」風貌の二人と自分が並んでみると、何となく、自分とは違う種類の生き物を見ている気分だった。

 

「ってわけで、えっと……なぁ、あいつなんて名前だったっけ?」

 

「え?あんな奴クラスにいた?」

 

「ほら、窓際の一番後ろの奴だって」

 

 

 丸聞こえで、ずいぶんと失礼なことを言ってくれる。しかし、先ほど自分もクラスメイトの名前をほとんど覚えていないことが判明してしまったので、人のことをとやかく言える立場でないことは、彼も分かっていた。まだ5月の頭であるし、とりわけ仲のいい生徒同士でもなければ、名前を覚えていないこともあるだろう。

 

 

その理論から言えば、クラスの誰も自分に興味を持っていないことになってしまうが。

 

 

「ああ!わかったわ!あのいっつも本ばっか読んでる陰キャラくんだ!」

 

 

「確か、名前に数字が入ってたくさくね?九か……十だっけ?」

 

 

「えっと……九条?」

 

 

「あ、それっぽい!いや、確かそれだわ!」

 

 

二人が何やら盛り上がっている一方で、十条九はどうでもよくなり、ボールを返そうと、フェンスの上を目がけてボールを投げる。高さが足りずに二回ほど失敗したが、話に夢中になっている二人には気付かれなかったようで、恥ずかしい目には合わずに済んだ。

 

 

「サンキュ!助かったわ、クジョウくん」

 

そんな名前のネギがあったな、と内心呟いてから、彼はその場を後にして図書室へと向かった。

 

 

古びた重いドアを開けて中を見渡すと、そこには数人の生徒がいるだけだった。放課後の図書室が妙に活気づいていたら、それはそれで気味が悪いのだろうが。

 

十条九は本棚の間を通り、奥の貸し出しカウンターへと向かう。書冊の匂いを嗅いでいるこの瞬間は、不思議と心が落ち着いた。リノリウムを踏む足音を聞くと、カウンターの奥にいる、眼鏡をかけた白髪混じりの女性が彼に気づいて微笑んだ。

 

「いらっしゃい」

 

「こんにちは。あの、前に貸し出しの予約をした本って、もう返却されてますか?」

 

図書室に新しく入ってきた新刊は、競争率が高く、大抵の場合すぐに誰かに借りられてしまう。そこで彼は、あらかじめ予約をしておくことで、返却された本をキープしてもらっているのだ。

 

無論、誰もがそんな待遇を受けられるわけではない。足しげく図書室へと通い、受け付けの人に名前を覚えられ、借りる本の傾向を覚えられて初めて、「今度こんな本が入ったんだけど、次に返却された時に取っておく?」と聞いてもらえるのだ。

 

彼もまた、伊達に年間200冊以上の本を借りていない。最近では、知人の数よりも今まで読んだ本の数の方が多のではないかと思っている。

 

 「ええ、返ってきてるわ。じゃあ、取ってくるから少し待っててね」

 

そう言って女性は奥の書庫へと消えていく。

 

後に残された十条九は、しばらくの間他に目ぼしい本がないか、見て回ることにした。

 

「えーわかんなーい。ねぇねぇユウくん、これどうやって解くのぉ?」

 

そんな、鼻につくような女の声が聞こえてきたのは、図書室の隅に設けられた学習スペースだった。何の気なしにそちらを見てみると、一組の男女が肩を寄せ合って一つの参考書に目を向けている。実に仲睦まじい光景だ。早々に爆ぜてしまえばいい。

 

「どれどれ……あぁ、こんなのちょっとした応用だよ。こっちの式を使って……」

 

 「えーやだー、ユウくんチョー頭いいー!」

 

お前のしゃべり方は頭良くなさそうに聞こえるな、と思いながら、彼は適当に本を見て回る。なるべくそちらを意識しないようにしてはいるが、ボードレールの詩集を手に取りながらも、なんとなく気が散ってしまっている。

 

「はは、ここはたまたま得意なだけだって。公式を覚えちゃえばヨユーだよ。この場合は二倍角だから、2sinα=2sinαcosαで解けるんだ」

 

「もー、ユウくん天才!そういうとこ超好きー!」

 

非常にどうでもいいが、そういうことは他所でやっていただきたい。ベタベタするのならいくらでもほかの場所でできるから、わざわざそんな様子を見せつけに来なくて結構だ。どうせ女の方は今の説明も理解していないだろう。図書室にしか行く当てのない者たちに謝罪すべきだ。と、その最たる者である十条九はそう思った。

 

「お待たせ」

 

戻ってきた女性に声をかけられ、カウンターへと戻る。そのまま手続きを終わらせ、彼は礼を言ってから図書室を後にすることにした。去り際にチラッと学習コーナーに目をやると、未だに例のカップルはいちゃついている。どうでもいいがユウくん、二倍角の公式はsin(2α)= 2sinαcosαなんだけど、 と思いつつ、彼はそっと図書室を出た。

 

せいぜい痛い目と恥ずかしい目を見ればいいのだ。

 

 

 

 

―3―

 

 

 

キャベツと肉を、強火で炒める。キッチンには、ソースのいい匂いが立ち込めていた。

 

「ただいま」

 

十条九がフライパンから目を上げると、ダイニングルームに一人の少女が入ってきたところだった。

 

「遅かったな。先に食おうかと思ってた」

 

「まだ7時でしょ。お兄ちゃんが帰るの早いだけだって。友達とどっか行ったりしないの?」

 

分かっているくせにわざわざ尋ねてくる辺り、大分性格が悪い。しかし、半ば定型化したやり取りであるだけに、十条九は肩をすくめる以上のリアクションを見せなかった。

 

「行かないな。そもそも行く友達がいない」

 

「ふーん。そう」

 

携帯電話を片手に、少女は興味無さ気に言った。十条九もまた、少女の方に目を向けたのは一瞬で、すぐに料理の方に視線を戻す。

 

彼は肉に火が通ったのを確認してから、料理を皿に盛り付ける。その間、味見などは一切していない。しょせん、胃に入ればなんだって同じだという暴論の下、それをダイニングのテーブルに運ぶ。少女はそれをチラッと目を上げると、「ふーん、ホイコーローね」と呟いた。

 

「何か不満でも?」

 

「そんなこと言ってないじゃん。ただ、何でお兄ちゃんが当番の時は炒め物が多いのかと思っただけ」

 

「炒め物の何が悪い。手軽にさっさと作れて、いいじゃないか。それに、変に凝った物を作ろうとするよりも、失敗するリスクが少ない」

 

 

「だから、そんなこと言ってないじゃん。いちいち突っかかんないでよ。でもまあ、お兄ちゃんはずっと一人暮らしする予定なんでしょ?結婚できな……しないから」

 

何か聞き捨てならないことが聞こえた気がしたが、とりあえずそれはスルーする。

 

「結婚なんて、頼まれたってするか。結婚は人生の墓場だ。誰かに気を遣いながら四六時中一緒に生活しないといけないなんて、考えただけで、ストレスでハゲそうだ」

 

「あー、はいはい。だったらなおさら、炒め物以外の料理も覚えたら?」

 

ヤレヤレというように、少女は席から立った。そのまま炊飯器の方へ向かう様子を見た後で、十条九は蛇口を捻る。

 

「俺は先にフライパンとか洗うから」

 

「はいはい。……って、ご飯と味噌汁とホイコーローしかないの?何とも彩りに欠けるというか、まさに男の一人暮らしの夕飯っぽい」

 

「どうせ俺は結婚しないからな。料理するだけマシだと思うぞ。正直、俺は冷凍食品とかインスタントだけでも全然生活できるし」

 

「うわぁ……なんか根に持ってる。その上開き直ってるし」

 

しゃもじを片手に、少女は気持ち悪いものでも見るような目を、兄に向ける。二人分のご飯と味噌汁を用意してから、彼女はそれをテーブルまで運んだ。

 

 

彼が洗い物を終えてからテーブルにつくと、少女はモグモグと口を動かしながら、相変わらず携帯電話をいじっている。

 

「朝陽(あさひ)、メシの時くらいケータイ置いたらどうだ」

 

言っていることがまるで口うるさい親のようだと、自分自身で思いつつ、十条九は声をかける。

 

「別にいいでしょ。叔父さんたちもいないんだし。ほら、私はお兄ちゃんと違って、SNSとかたくさんやってるし。返信とか更新は、早いほど、頻度が多いほどいいでしょ?違う?」

 

煩わしいものでも相手にしているように、彼女は顔をしかめながら尋ねる。

 

「どうせ相手は友達だろ?メシの間くらい待たせとけよ。なんなら、明日の朝に『ごめ~ん、寝オチしちゃった~』って送ればいい。少なくとも俺は中学生の頃に女子に送ったメールが8割以上の確率でそう返ってきたぞ」

 

ちなみに、残りの2割は返信すら返ってこなかった。

 

「へぇ、お兄ちゃん女子の知り合いいたんだ。お兄ちゃんが一方的にそう思ってただけじゃなくて?」

 

「そんなはずはない……と思う」

 

「ちなみに、中学時代にメールを送った数は?」

 

「……10通」

 

「あ、そう」

 

これ以上何を言っても無駄だと思い、彼は問い詰めることを放棄して味噌汁をすすった。別に、負けを認めたわけではない。

 

「やっぱり、返信とかはすぐに返さないと。すぐに仲間内ではぶられちゃうんだから」

 

 「大した偏見だ」

 

「へぇ、友達いないお兄ちゃんにわかるの?リア友はおろか、広大なネット世界にすら居場所のいないお兄ちゃんに?」

 

無論、知ったことではない。

 

何なら、自分の携帯電話が通話に使われた事など、片手で数えられる回数しかない。そもそも彼の携帯電話は、目覚ましの音とアプリの更新に関する通知以外を、持ち主に知らせた事がないのだ。SNSにしても、フォロワーが二人しかおらず、そのうち一人は「ネットビジネスで月に○万円!稼いでみませんか!?」みたいな内容のメッセージしか送ってこなかったので、作った三日後くらいにアカウントを消してしまった。

 

そんなに面倒くさい思いをしなければならないのなら、やはり友達などいらないと、彼は思ってしまう。

 

「あ、そういえばお兄ちゃん、明日のこと覚えてるよね?」

 

「ああ。叔父さんたちが帰ってくるってことだろ?それがどうした?」

 

何の休暇でもない日に海外へ旅行に行けるなど、実にいいご身分である。しかし、そのおかげで自分たちは都内に、それも一軒家に住むことができているのだから、文句は言えないのだが。

 

「明日の夜の7時くらいに空港に着くって」

 

「ふーん」

 

「ちょっと、ちゃんと聞いてる?二人で迎えに行くんだからね?」

 

 朝陽の言葉に、彼は細い目を大きく見開いた。

 

「は?何で俺まで?俺が行ったって、ただ嫌味言われるだけだろうが」

 

「家に帰ってきてからいつまでもグチグチ言われるよりマシでしょ。一時ガマンするだけですむんだから、ちゃんと行くこと」

 

箸の先をピッとこちらに向けながら、朝陽は呆れたような顔で口にする。十条九が何も言い返さなかったのは、確かに彼女の言う通りであるという事を、認めたためである。彼はまだ不服そうな顔をしていたが、諦めたように渋々頷いた。妹に言い負かされたようで、何か悔しかった。

 

「じゃ、そういうことで。明日、学校終わったら駅前に集合ね」

 

彼女は「ごちそうさま」と手を合わせてから、そそくさと立ち上がる。

 

「あ、それと味噌汁、ちょっと味濃かった。これから先ずっとそんなの飲んでたら、生活習慣病になっちゃうよ」

 

「どうせ結婚しないんだから、この先も自分で作るんでしょ」という嫌味を言うのを忘れずに、彼女は自分の部屋へと戻っていった。

 

「……今度から全部インスタントにしてやろうか」

 

彼は味噌汁を一口含み、首を傾げる。ちゃんと作ればそれなりの物は作れるのだが、いずれにせよ口数の減らない妹が相手なので、未だに彼が全力を出した事はない。

 

ついでに言うと、今後もその予定はないのである。

 

 

 

「――!」

 

 

ダンの視線が、素早く右に動く。彼は目にも留まらぬ動きで、視線を向けたその方向にトーマの身体を押しやった。

 

 

刹那、タンッ、と乾いた音が数発鳴り響く。その音に少し遅れて、トーマの背中から黒い血が吹き出した。

 

 

「がふっ!?」

 

 

その口の端からも、黒い液体が滴る。ダンが手を放すと、トーマはダラリと地に膝をついた。その背中には、何かが撃ち込まれたような痕が残っている。

 

 

「て……てめえ、人のこと、弾除けに……」

 

 

「……傷口が回復していない。なるほど、銀製の銃弾ですか」

 

 

ダンはその様子を一瞥し、視線を上げる。朝陽が同じ方向へ振り返ると、そこには二つの人影があった。

 

 

「そげなに遠慮せんと、ようけ撃てばええものを」

 

 

そのうちの、大柄な体躯の男が低い声で尋ねる。すると、その傍らに立つ女性は、構えていた銃をおろした。短めに切られた銀髪が、月光を受けて輝いている。

 

 

「あれ以上撃っても無駄だった。いくら撃とうが、あの金髪の身体を盾にされて、それまでだ」

 

 

「じゃけど、一人は殺せたじゃろうに」

 

 

男が肩をすくめると、女性は彼の言葉に眉を寄せる。呆れた表情でため息をつきながら、女性は男の方に視線を向けた。

 

 

「殺してどうする。生け捕りにするという手はずだろう」

 

 

それに、と言葉を切って、女性はダンの方に一瞥をくれる。

 

 

「あの男、全部急所を外している。あのまま連射し続けていようが、全部ギリギリのところで致命傷にならなかっただろう」

 

 

「ふーん、つまらんなぁ」

 

 

口にしながら、男は一歩前に出る。短く刈り込まれた髪の下で、細く鋭い双眸が光っていた。それを見ると、ダンは何かに納得したように頷いた。

 

 

「そうですか、あなた方が日本の……思ったよりは、対応が早かったですね」

 

 

対峙しながらダンが口にすると、男は小さく笑みを浮かべる。「嫌味のつもりか」と彼が尋ねると、ダンは首を横に振った。

 

 

「いえ、そのようなことは。言葉の通りです。当初我々が練っていた計画とは、だいぶ手はずが異なっていますからね。あなた方のお仲間が嗅ぎまわっていた時の、計画とは」

 

 

「お前たちが向こうの支部の連中を掻き回してくれたからな。おかげで全部後手後手だ」

 

 

手に持った銃を見て女性が澪すと、男が同意するように頷く。

 

 

「そうじゃなぁ。おかげで、こげぇな武器しか用意できんかったし。こげに大掛かりなことするんじゃったら、大層な武器使(つこぉ)ても、ばれんかったじゃろうに。まあ、われらぁ部下まで巻き込んで兄弟喧嘩に夢中じゃったけぇの、ここまで来るんに苦労はせんかった」

 

 

どこか小馬鹿にするように口にしながら、男は腰の辺りから短刀のようなものを取り出した。鈍い光を放つ刃を見ると、トーマは苛立ったように舌打ちをする。

 

 

「やる気かよ、この番犬どもが」

 

 

トーマが、よろよろと立ち上がる。彼はチラッとダンの方を睨んだが、すぐに男の方へと向き直った。兄弟でやり合っている場合ではないと、判断したのだろう。

 

 

「はは、番犬じゃのぉて猟犬じゃ。そこまで行儀ようないからの」

 

 

「うっせぇ!このジジイ!」

 

 

「ジジイたぁなんだ!わしゃぁまだ55じゃ!」

 

 

二人がガミガミとやり合っている中で、女性とダンは静かに視線を交錯させていた。彼女は黙ったまま弾倉を入れ替える。その視線が、何が起きているのか分からずに呆然としている朝陽に、わずかに向けられる。

 

 

「きゃっ――!?」

 

絶叫マシンにでも乗せられているような勢いで、宙に投げ出される。20メートル近く飛ばされ、瓦礫の山に背中から落ちた瞬間、衝撃と痛みで視界が明滅しそうになった。

 

「いっ……たぁ……」

 

朝陽が呻いた、その瞬間だった。先ほど飛行機がぶつかったのと同じような音が、建物の天井の方から響いてきたのだ。何度も何度も、まるで乱暴に暴力でも振るうようにその音が響く度、天井がミシミシと音を立てながら揺れる。

 

「こ、今度は……何が……」

 

その音が響いた何度目かに、とうとう天井を貫いて何かが落ちてくる。ちょうど、女性が横たわっていたあたりの位置だ。天井に開けられた穴からは月明かりが入り込み、舞い上がった砂埃に反射して、光の柱を作り出していた。そしてその柱の下に、何かが佇んでいる。

 

「ずいぶんと、いい格好になってるじゃねーの、オフクロ」

 

服に付いた埃を手で払いながら、その人物は立ち上がる。耳のいたるところにピアスを付けた、金髪の男だった。典型的な、不良のような格好をしている。

 

「あっれ~?ひょっとしてオレが一番乗りか?ハッ、ついてんな!」

 

瓦礫の山を踏みつけながら、金髪は乱暴な足取りで女性の方へ近づいていく。どうやら、瓦礫の間に挟まっている朝陽には、気づいていないようだ。

 

「……きっと、この言葉はあんたみたいな奴のためにあるんでしょうね……『今更どのツラ下げて来た』?」

 

手のかかる子供でも見るように、女性が笑う。それを、金髪はどうでもよさげな顔で聞いていた。

 

「このツラだよ。カワイイカワイイ息子の顔、もう忘れちまったのか?歳だな~、あんたも。もっとも、オレは介護なんて御免だぜ?」

 

そう言いながら、彼は女性の下半身を押し潰している金属の塊を蹴り上げた。先ほど朝陽がどかそうとした時にはビクともしなかった巨大な金属が、片足で軽々と飛ばされ、地響きのような音を立てる。分かってはいたことだが、この金髪も、女性と同じく人間ではないのだろう。しかし朝陽には、この男がどうしても、女性のように話が通じるタイプには見えなかった。

 

そうなれば、相手が人を襲う可能性のある以上、朝陽がとれる行動は二つしかない。隠れるか、逃げるかのどちらかだ。

 

しかし、右脚が思うように動かない今、実質このまま隠れているよりほかに選択肢はないようなものだが。女性が言っていたように、朝陽は静かに隠れていることにした。

 

「……チッ、やっぱり両足も兄貴どもに先越されたみてーだな」

 

下敷きになっていた女性の体を見て、金髪は忌々しげに毒づく。

 

「まあいいや。残ってるの全部もらえれば、おつりがくるくらいだ。知ってっか、オフクロ。こういうの、日本じゃ『残り物には福がある』っつーんだぜ」

 

「親の身体を物扱いしてる時点で、福なんて巡ってこないわよ、この罰当たりが」

 

「おー、コワイコワイ!ま、ちゃんと残りカスは処理しといてやるからさ、それで許してくれや。ほら、親コーコーってやつ?」

 

二人が何の話をしているのか、朝陽にはいまひとつ理解できていなかった。だから、金髪が女性の側に屈んだのを見たとき、ただ単に、彼が自身の母親を助けようとしているのだと思っていた。

  

「んじゃ、さっそく貰うもん貰うわ」

 

金髪の男が女性の方に手を伸ばし、口にする。

 

 

「ってわけで、死ね」

 

 

朝陽の耳にその言葉が届くか届かないかのところで、彼の右手が女性の首に突き刺さっていた。グシュッ、と、果物に刃物が刺さるような音と共に、女性の口から黒い血が溢れ出す。その光景を、朝陽は瞬間的に理解する事ができなかった。

  

「……なっ……!」

  

思わず声をあげそうになった朝陽は、慌てて自分の口を押さえる。目の前で起きている、理解の及ばない惨事に、全身が総毛立っていた。あまりの状況に、慄いた朝陽の体が微塵も動かない一方で、金髪が女性の首から勢いよく腕を引き抜く。それと同時に、せき止める物を失った傷口から、ドクドクと血がこぼれ出した。

 

「まぁ、吸血鬼の血なんてただクソまずいだけだが……しかたねえ、これも『遺産』のためだ」

 

金髪は女性の胸倉を掴むと、その傷へと顔を寄せる。そして、流れる液体に舌を這わせたかと思うと、直後、彼は何の躊躇いもなくその首筋に嚙みつき、喉を鳴らした。

 

 

――飲んでいる。傷口から溢れる黒い血を、男は啜るように、音を立てながら飲んでいるのだ。

 

 

女性の顔が、辛そうに歪む。まるで、肉食動物が獲物を貪っている光景を見ているような気味の悪さに、朝陽の体は細かに震えていた。

 

「……や、やめて!」

 

――止めなければ。直感的に、朝陽はそう思った。

 

「……その人から、離れて!」

 

大きな瓦礫の破片に掴まりながら、朝陽は身体を起こす。獲物に噛り付いていた金髪は、それに気づいて怪訝そうに顔を上げた。

 

「……あぁ?」 

 

金髪が不機嫌そうな声を上げるのと同時に、女性が「しまった」という顔で朝陽に視線を向ける。

 

「なんだなんだ?何ですか、テメエはぁ?生き残ってた乗客か?」

 

気だるそうに言いながら、金髪は手近な瓦礫の隙間に手を突っ込み、何かを探すようにまさぐる。

 

「ワリィんだけど、親子水入らずの時間を邪魔しないでくれるかなぁ?いくら温厚なオレでも、そういう非常識なのは許せねーんだわ」

 

金髪が瓦礫の間から引き抜いた手には、コンクリートが付いたままの鉄筋が握られていた。恐らくは、建物の一部を構成していた物だろう。曲がった鉄筋と、その先端にあるコンクリートの塊は、歪な形のハンマーのようだった。

 

「しゃしゃるな。ちょっと黙ってろ」

 

男が、鉄くずを持った右手を振りかぶる。言うまでもなく、投げるつもりだ。あの巨大な瓦礫を蹴り飛ばすような怪力で、朝陽に向かって投擲する気でいるのだ。

 

負傷した右足のせいで、避けることはできない。それでもどうにか、この場から離れようと試みるが、瓦礫だらけの足場では数歩分も移動できなかった。まさに、男の手から鉄くずが離れようとした瞬間、朝陽が咄嗟に腕で顔を庇おうとした、その時だった。

 

 

「――なっ!?」

 

 

ゴキン、という鈍い音とともに、何かが宙を舞っている。それが自らの右腕だと気づいた瞬間、男は声をあげていた。その手に握られていた鉄くずが、朝陽と男の間に落ち、重い音を立てる。

 

驚きに目を見開く男の眼下で、女性が上半身を無理やりに起こし、残った右腕を振り抜いていた。

 

「こ……の……死に損ないがっ‼」

 

男は左腕で女性の右腕を掴むと、女性の身体を何度も踏みつける。

 

「ちっ……まだ力を残してやがったか……大方、オレが隙を見せたところで首でも刎ねるつもりだったんだろうが……しくじったな!」

 

まるで鬱憤を晴らすように、男は何度も何度も女性をいたぶる。喉の傷口や口から、黒色の血がゴボゴボと溢れた。

 

「おいおい、どーしたよ!?ははは!さっきので終わりか!?」

 

嘲るように笑いながら、男の足は女性の体を踏みつけ続けた。その勢いに、床が軋みをあげ、だんだんとひび割れていく。

 

「あ……ぁ……」

 

その光景を見て、朝陽は頭を抱えてうずくまる。耳を押さえても、女性が蹴りつけられる音がその奥に響いてくる。それは、彼女が一番思い出したくない記憶をフラッシュバックさせるのに、十分なものだったのだ。

 

母親が、父親に暴力を振るわれている姿。

 

目の前の光景が、それと重なっていく。

 

「違う……ちがうちがう!」

 

考えを振り払うように、朝陽は頭をより強く抱え、目をギュッと瞑る。しかし、まるで網膜に映像が焼き付いているかのように、母親がなぶられる光景が消えてくれない。

 

「ち……が……」

 

それは、おそらく自分が覚えている記憶の中で、最も古いものだった。初めて父親に手を上げられた記憶。

 

そして、それを庇おうとした母親が、自分の代わりに殴られ、蹴られる。

 

――今の状況に、どこか似ている気がした。

 

「……ち、違う!違う、違う……コレは……違う……関係ない……関係な……」

 

必死で、自分に言い聞かせる。瞼の裏に焼きついた映像をかき消そうと、彼女は躍起になっていた。

 

何とか自分を逃がそうとする母親と、何もできずに怯えている幼い自分。どうしても、今の状況に重ねてしまう。

 

「ち……が……ぁ」

 

その時、何かがパキッと折れるような音が、彼女の耳に届いた。恐らく、骨の折れる音だ。音の軽さからして、肋骨が踏み折られたのだろう。その音に、思わず朝陽は目を見開き、女性の方へと視線を向けてしまった。

 

「……ぁ」

 

女性と、目が合った。朦朧とし、意識のはっきりしていないような視線が、朝陽の方に向いていた。

 

女性の口が、弱々しく開かれる。無論、声など聞こえないはずだが、朝陽は唇の動きを目で追ってしまう。

 

それは、はっきり「逃げて」と言っていた。

 

 「ぁ……あ……」

 

 

その光景は、完全に母親のそれと一致してしまった。

 

 

「あ……あああああああああああああああああああああああああああああっ!!」

 

 

 直後、朝陽は立ち上がり、足場の悪い瓦礫の中を駆け出していた。

 

 

「オレの身体に一瞬で深手を負わせられるとは……さすが、『女王の右腕』だな。が、もうさすがにこいつを振るう力は残ってねーか」

 

口にしながら、男は女性の右腕をひねり始めた。女性の肩が、ミシミシと軋んだ音を立てる。

 

「安心しな。この右腕は、オレがちゃんと……ガッ!?」

 

 その瞬間、男の頭部を衝撃が襲った。ガスッ、という鈍い音が、辺りに響く。朝陽が助走を付け、手に持った鉄くずで男の頭を殴りつけた音だった。彼は目の前の獲物に気を取られ、朝陽の接近を許していたのだ。

 

しかし、男は表情をピクリともさせないまま、微動だにしなかった。

 

「うっわぁ、コワイコワイ!最近の高校生は、思い通りにならない事があると、鉄筋で人の頭殴ってくんのかよ。意識が飛んじゃうかと思ったわー!」

 

顔を上げないまま、その目がジロリと朝陽の事を睨む。

 

「なんつって、結局オレは無傷ですけども。あのさぁ、さっきからお前はなんなの?正義感かなんかのつもり?こんなことしてなんになるの?誰か褒めてくれんの?あぁ、あれか?困っている人がいたら助けましょうって、学校で習ってんのか?うん、えらいえらい。オレ、学がないから知らなかったわー。まあ、結局……」

 

男は、朝陽に見せ付けるようにしながら、そのままゆっくりと女性の腕をひねる。

 

直後、木の幹が折れるような音とともに、本来曲がらないような方向に、その腕が曲がっていた。

 

「きゃっ……!」

 

「お前には、何もできなかったねぇ」

 

よろよろと、朝陽は後ろに下がる。その様子をニヤニヤと笑って眺めながら、男は女性の右腕を思い切り引く。

 

 直後、肉を裂く嫌な音が、辺りに響き渡った。

 

「いやああああっ!!」

 

両手で頭を抱えるようにしながら、朝陽は絶叫する。その様を、男は愉快げに嘲笑していた。

 

「ぷっ……くくっ、はははは!マジでウケる!楽しいなぁ、自分にも何か出来るとか思っちゃってる勘違い野郎の鼻をへし折るのって。なあ、今どんな気分なわけ?」

 

一頻り笑った後で、男は引きちぎった右腕にまじまじと目を向ける。

 

「さてと、ちょうど右腕なくしちゃったとこだし……血ィ吸うより、このままくっ付けちまったほうが早いか。よっ……と」

 

男は手に持った腕の断面を確認した後で、それを自らの右肩に押し当てる。直後、欠損した彼の肩と腕との間で、奇妙な音が鳴り始めた。粘着質な、肉の塊をこね合わせるような音。臓物同士を擦り合わせるような、不快感を伴う音の正体は、持ち主の違う二つの肉が、一つに癒着しようとするものだった。

 

血管同士が絡まり、細胞壁と細胞壁の境が消える。科学も医学も無視した超常的な光景を、男は当然のように眺めていた。 

 

 「ほい、合体。いっちょーあがり、っと」

 

まるで感触を確かめるように、右手の開閉を繰り返す。その動きに支障がない事を確かめると、男は満足げに微笑んだ。

 

「こんな雑なやり方でくっ付くとはなー。なんだかんだでやっぱり親子か」

 

さてと、と口にし、男は顔を上げる。

 

「残りもとっとともらうか。兄貴どもが来たら面倒だし……って、あぁ?」

 

その視界に、男に背を向けて走る朝陽の姿が映った。その腕に抱えられたものを見て、男は眉をひそめた。

 

「おいおい……ここまでされるとさすがに笑えねーよ?」

 

彼女が人一人を抱えたまま走れたのは、女性が両手両足を失い、軽くなったからだろうか。それとも運動部で鍛えた身体のおかげか、あるいは火事場の馬鹿力というやつか。

 

いずれにせよ、彼女は女性を抱え、全力で走っていた。

 

「……あ……さひ、ちゃん」

 

ようやく声帯が治ったのか、腕の中から絞り出したような声が聞こえた。

 

「なに……して……?」

 

 「……逃げなきゃ」

 

ぽつりと、朝陽は呟く。焦点の合っていないその目は、もはや正常とは言い難かった。

 

「逃げなきゃ……逃げなきゃ逃げなきゃ逃げなきゃ……早く早く早く早くっ!」

 

「……っ、あさひちゃ、ん……落ち着いて……落ち着きなさい!」

 

強い口調で言われ、朝陽は思わず体をビクッと震わせながら立ち止まった。

 

「いい?あさひちゃん、よく聞いて……私の眼を見て、話を聞くの」

 

取り乱していたはずなのに、朝陽は不思議と、女性の言うことに引き込まれていく。彼女の藍色の瞳から、朝陽は眼を離せなくなっていた。

 

  

「……ごめんね。でも、あなたが助かる方法、これしかないから――」

 

 

立ち止まったまま、朝陽は女性の言葉に耳を傾けている。その間に男は、朝陽の背後へと歩み寄っていた。逃げていたはずの朝陽が足を止めた理由も、何をしているかも分からないが、男のする事は決まっていた。

 

「せーの、トウッ‼」

 

強烈な衝撃が、朝陽を襲った。背後から腰の辺りを、思い切り蹴り飛ばされたのだ。

 

「がっ……ふっ……」

 

そのまま、彼女は前のめりに転がった。すぐさま起き上がろうとするが、激痛が走り、身体が動かない。それどころか、指一本でも動かせば、途端に意識が飛びそうだった。

 

「さすがにもう動けねーだろ。腰の骨が砕けたか……少なくともずれてるんだから」

 

「そん……な……」

 

もはやここまでか、と、朝陽はうな垂れた。むしろ、傷を負った身でここまで逃げたことが、奇跡に近い――

 

 

そこまで思考して、彼女はおかしなことに気が付いた。自分はケガをしていたんじゃなかったのか?出血多量で、動くことさえままならなかったんじゃなかったのか――

 

 

「じゃあ、今度こそお別れの時間だ。よかったなぁオフクロ。最後に人に優しくしてもらって」

 

男が、地面に放り出された女性に近づく。うつ伏せになった朝陽からは、その光景が見えなかった。 

 

「……あ?どうなってる……?」

 

不機嫌そうな男の声が、朝陽の耳にも届いた。

 

「おい……おいおいおい!冗談キツイぞ……」

 

焦ったように言いながら、男は女性の首を右手で掴む。そのまま、女性の身体を力任せに持ち上げた。

 

 

 「あんた……『目』と『心臓』をどこへやった!?」

 

 

女性は目を閉じたまま、嘲笑するように小さく笑う。

 

「そんなに首を絞めたら、苦しくて喋れないんだけどなぁ……」

 

「ふざけんなッ!!」 

 

男は女性の身体を地面に叩きつける。瓦礫の破片が周囲へ飛び散る中で、女性の表情は崩れない。

 

してやった、ざまあみろ、というような笑みで、女性はなすがままにされているのだ。

 

「おい……死ぬ前にさっさと答えろ。『目』と『心臓』をどこへやった!?さっきまでは確かにあったんだ‼答えろ‼ほら‼さもないと……」

 

「さもないと、私を殺す?ずいぶん余裕がなさそうね。ま、ご自由にどうぞ。どのみち、いくら私たち吸血鬼でも、心臓がなければ血が全身に回らず、回復が間に合わずにいずれ死ぬわ。放っておいても、私は死ぬ」

 

クスクスと、まるで嘲るかのように女性は笑った。

 

「……ッ、このっ……!!」

 

グッと、男の腕に力がこもる。女性の首が、ギリギリと音をたてた。

 

「……っ、あなたに……一つだけ……忠告しといてあげる……今のあなたじゃ……シュウはおろか……ミラにさえ……ただでさえ、あなたは昔からそそっかし……」

 

 

その直後、ゴキン、という音とともに、女性の声が途絶えていた。

「大丈夫か?」

「えっと……」

 

 

気遣うような女性の言葉を聞いて、朝陽は返答に窮する。ほんの数秒前までの応酬と、たった今訪れた静寂の緩急差に、思考もまとまらなかったのだ。

 

 

「無理しなくていい。むしろ、こんな現場で平気そうにしている方がおかしいんだ」

 

 

「……はい」

 

 

どうやら腰が抜けてしまったらしく、うまく立ち上がることができない。そんな様子を見て、女性は「少し待ってろ」と口にし、朝陽の手を離した。

 

 

「確か、この辺に……」

 

 

彼女は瓦礫の山の一つに近づくと、それをどかし始めた。しばらくそれを続けると、内側から何かが飛び出してくる。それが先ほどの大男だと気づくと、朝陽は思わず仰け反りそうになった。

 

 

「いやー、参った参った。足を瓦礫に取られて、動けのぉて」

 

 

「相変わらずドン臭いな。まあいい、少し背を貸せ」

 

 

「なんじゃ、コウガネちゃん怪我したんか」

 

 

「私じゃない」

 

 

そう言いながら、朝陽の方へと視線を向ける。それを目で追うと、「ああ、はいはい、そがぁなことか」と男は納得したように頷いて、そのままのっしのっしと朝陽の方へ近づいてきた。その様子に、朝陽は何か熊のような大型生物が彷彿とさせられる。

 

 

「ほれ」

 

 

男が、朝陽に向かって背を向けた。どうやら、乗れということらしい。朝陽はしばらく躊躇していたが、やがてその首におずおずと手を回した。そのまま、少し汗臭い背に体を預ける。

 

 

「……あ、あの……ありがとうございます」

 

 

「気にすなよ。そがぁなことより、一人で怖かったじゃろう。嬢ちゃん、歳は?」

 

 

そう問いながら立ち上がる男に、15と答える。それを聞いて、男は哀れんだようにため息を吐いた。

 

 

「すまんなぁ、巻き込んで。もちぃと早(はよ)ぉ着けりゃぁえかったんじゃが……まさか、飛行機一機まるまる落とすなんての……おっと」

 

 

喋りすぎたというように、男は慌てて口をつぐんだ。顔色を伺うように、女性の方に顔を向ける。

 

 

「別に構わん。どうせ、その子ももう当事者だ。今更、知らぬ存ぜぬでは通せないだろう」

 

 

女性が片手を上げて、何かの合図のようなことをする。すると、どこに隠れていたのか、小銃を持った兵士のような者たちが、一斉に集まってくる。そのうちの一人が、女性の前へと進み出てきた。

 

 

「甲鐘隊長、よろしかったのですか?奴らをあのまま逃がして……」

 

 

「構わない。目的のモノはいくつか回収できた。当面、最悪の事態は免れる。それより、まだ生存している乗客たちがいるかもしれない。我々がここにいては、救助活動もできないだろう。ここはまだマシだが、機体の近くはいつ燃料に引火するか分からないしな」

 

 

そう言うと、女性は朝陽の方に顔を向けた。切れ長の大きな瞳が、朝陽を観察するように、頭の先からつま先までなぞるように動いた。

 

 

「え、えっと……?」

 

 

「コウガネちゃん、そがぁなびせぇ顔すなって」

 

 

甲鐘と呼ばれた女性は、一瞬ムッとした顔で男を見たが、すぐに視線を戻す。

 

 

「キミ……名前は?」

 

 

 「あ、朝陽です。十条朝陽」

 

 

「甲鐘彩夏だ。……さっき聞いたかもしれんが」

 

 

どこか不服そうに顔をしかめたのは、先ほどのやり取りを思い出したからだろう。彼女としても、あの場を収める方法があれしか無かった事に、少なからず憤っているのだ。

 

 

「あ、わしは鮫島宗治(さめじま そうじ)な。これからよろしゅう、アサヒちゃん」

 

 

男が背中越しに、付け加えるように口にする。朝陽はそれに応じようとするが、不意にその言葉に違和感を覚え、首を傾げていた。

 

 

「これから……?」

 

 

現場に立ち会った者として、事情徴収くらいは覚悟していたが、今の言い方だとまるで、これから行動をともにしていくような口ぶりのように聞こえた。そもそも、朝陽は彼らが何者なのかすらも把握していないのだ。成り行きから味方のようなものと思っていたが、その目的も何も知らない。

 

 

「おう。……ん?コウガネちゃんから聞いてないんか?」

 

 

「いえ……っていうか、あなたたちは警察とか、自衛隊とか……そういうのじゃ、ないんですか?私、さっきから話についていけてないんですけど」

 

 

説明を求めるように甲鐘の方を見ると、彼女は困ったように頬をかいた。

 

 

「私から聞かせるも何も……まあいい、私の口から話そう。私たちは、未確認吸血生命体対策機構という組織の者だ。通称、Institution of Counter Sanguivorous Anonymity……」

 

 

「ああー、縮めてICSA(イクサ)な」

 

 

長ったらしい名前を飲み込むのに苦労している朝陽に向かって、鮫島が苦笑しながら補足する。

 

 

「言わずとも分かるだろうが、私たちの仕事はさっきみたいな連中を始末することだ。いわゆるヴァンパイア・ハンターってところか」

 

 

「……それで、何で私を……?そもそも、あなたたちは今回のことを……」

 

 

何を最初に尋ねればいいのか分からず、口から質問があふれ出そうになる。それを遮るように、甲鐘は片手を上げた。

 

 

「一度に答えられる質問でもない。後は道中話そう」

 

 

「え……?道中って……」

 

 

「これから、キミのことを保護させてもらう。とにかく、私たちと一緒に来てもらいたい」

 

 

朝陽はそれを聞き、思わず身構える。いくら助けられたとはいえ、得体のしれない組織に訳も分からず連れて行かれるなど、誘拐と何ら変わりないだろう。

 

 

「……そんな顔をするな。さっきも言ったが、キミはもう関係者だ。一般人じゃない」

 

 

甲鐘はため息がちに口にする。腕組みをしながら、彼女は困ったように顔をしかめていた。

 

 

「関係者……いや、そんな程度の話ではないか。これからは、キミを中心に話が進むだろう」

 

 

「さっきから……もっと分かるように説明を……」

 

 

その時不意に、朝陽は近くにあった瓦礫の残骸に、ガラス片が転がっているのに気づいた。恐らく、空港内にあった店の窓ガラスか何かの破片だろう。朝陽は何気なく、そういえば自分の額の傷はどんな具合だろうかと、傷が残ってしまったら嫌だなぁと思いながら、おそるおそるガラスに顔を映した。

 

 

「……え?」

 

 

そこに映る自分の顔に、彼女はとてつもない違和感を覚える。傷が、どこにもないのだ。確かに、顔は汚れだらけで、髪もボサボサになってしまっているのに、傷だけはどこにも無いのだ。自分の思い過ごしだろうか、と考えるも、自分の右手の先に付いた血の痕が、それが事実であることを告げている。そういえば、右脚の負傷も、なぜかすっかり消えてしまっている。思い当たる節と言えば、女性の『おまじない』くらいしかない。

 

 

自分の身体に何が起こっているのか、一抹の不安の中で、彼女はガラスの中の自分を見つめる。ガラスの中から見つめ返してくる視線に、彼女は悪寒を感じた。

 

 

まるで、それが自分の目ではないような、他人に見られているかのような、そんな感じがしたのだ。そう、ちょうどガラスの中に知らない誰かがいるような――

 

 

「……気づいたか」

 

 

甲鐘が発した声に、朝陽は顔を上げる。

 

 

「あの……甲鐘さん、私の身体は……」

 

 

自分でも驚くほど乾いた声で、朝陽は尋ねた。

 

 

「私の『目』は、どうなってるんですか?」

 

 

甲鐘の方に向けた朝陽の瞳は、深い藍色の光を帯びている。まるで、先ほど殺された女性のように――

 

 

「隠す事でもない、はっきり言おう。それはキミの目じゃない」

 

 

複雑そうな表情で、彼女は言った。

 

 

「『女王』の、魔眼だ」

 

第一章 邂逅―Happening― 〈了〉

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