第1章 邂逅ーHappening-【5】
―5―
「じゃあね、十条くん」
帰り際に、再び委員長に声をかけられた。
「あ、うん」
一日に、三度も同じ人に声をかけられる。勘違い野朗であれば、即座に「あれ?こいつ俺に気があるんじゃね?」と勘違いしているレベルである。
無論、彼はそんな勘違いなどするわけがない。そんなもの、中学生の時点でとっくに卒業している。そもそも、女子の大概は「あれ?こいつ俺のこと好きなんじゃね?」オーラを出しているものなのだ。そして、リア充たちにとっては、ぼっちに声をかけてやることすら、ステータスの一つ、フィールドワークに過ぎないのだ。
もはや惑わされない。そう決心を固めつつ、彼は教室を後にする。
そういえば、今日教室内で発した言葉が「うね」と「うん」だけだったなあ、と、去り際にそう思った。
駅前で待ち合わせてから、十条九と朝陽は、空港へと向かった。片道電車で一時間はかかることにぶつくさ文句を言いながらも、朝陽に連れられて、とうとう空港へと着いてしまう。そこでも「人が多い」だのなんだのと文句を言うが、彼が一番嫌がっているのは、叔父たちに会うという事実なのだ。
端的に言って、彼は叔父夫婦が嫌いで、叔父夫婦もまた、彼のことが嫌いなのである。それもそのはず、血が繋がっていないという理由であまりにも露骨な差別をしてくるような叔父たちを好きにはなれないし、彼らもまた単純に、ひねくれた性格の十条九を好きにはなれないのだ。
「っていうか、早く着きすぎたんじゃないか?7時くらいなんだろ?」
「そうだね……でもまあ、遅れるよりはマシでしょ?」
「……俺、ちょっと売店でも見てる」
「あ、ちょっと!」
彼は妹を一人残し、その辺へとふらふら歩いていった。何ならこのまま帰りたいとすら思いながら、売店を見る。ふと、お土産用のお菓子の詰め物の一つが、彼の目に留まった。
「……コアラのムーチョ、日本限定紀州梅味か……」
「コアラのムーチョ」とは、中にチョコレートが入っている焼き菓子である。老若男女に愛される日本で大人気のお菓子だ。その人気の秘密は、味や食感もさることながら、そのデザインである。小さなビスケット生地の表面一つ一つに、コアラのキャラクターの絵が描かれているのだ。
しかも、その絵の種類が実に豊富であり、楽器を演奏しているコアラ、スポーツをしているコアラなど、聞くところによると軽く800種を超えているらしい。また、基本であるチョコレート味の他に、イチゴ味や、期間限定のマロン味など、飽きを感じさせない味のバリエーションも、皆から愛される理由の一つだろう。さらに、日本以外にも十数カ国で販売されており、その人気は留まることを知らない。
「よりにもよって外国人用のお土産に梅味か。少し際どいだろ……いや、コアラのムーチョのことだ、きっと梅嫌いな人でも梅が食べれるようになるくらい美味いに違いない」
彼は一瞬それを買おうかどうか迷ったが、お土産用の大きなサイズのものしか売っていなかったため、断念せざるを得なかった。やむを得ず彼は渋々とその場を離れる。一通り売店を見終わって、彼が妹の元へ戻ろうと、振り返った時だった。
「――え?」
飛行機が見えた。
朝陽の後ろ側にある大きな窓ガラスの向こうに、一つの旅客機が飛んでいる。空港に旅客機がある、などとそんなことは当たり前であるが、それを見た瞬間、彼の背中をゾクリと悪寒が走った。
高度が、機体の向きが、明らかにおかしい。目測で200mほどの低空を飛んでいるのにも関わらず、車輪すら出ていないのだ。第一、滑走路の向きからして、進入方向が合っていない。
つまり――
「朝陽ッ!走れ!」
悲鳴が上がった。
窓とは反対方向に、十条九のいる方に、たくさんの人が押し寄せてくる。年齢も性別も、国籍さえバラバラな人の群れが、互いを押しのけながら、われ先にと逃げ惑っている。
その一人の中に、朝陽はいた。
流れに逆らいながら、十条九が手を差し出す。それに応えるように、朝陽も手を伸ばす。
その瞬間だった。
轟音とともに、朝陽の姿が消えたのは――視界が、真っ暗な闇に覆われたのは。
―6―
一機の旅客機が、空港へと突っ込んだ。
不自然な位置で高度を下げた旅客機は、機体の底で隣接する駐車場をこするようにした後、十条九や朝陽がいる方へと突っ込んだのだ。もしそれで減速していなかったら、被害はさらに大きくなっていただろう。燃料に火がつかなかったことが、奇跡だったと言っていい。
「……あ……つ……」
呻くような声を上げながら、瓦礫の中でわずかに身を動かす。十条九は、未だに死んでいなかった。どうやら件の機体は彼の頭上を通過して行ったらしく、直撃自体は避けられたようだ。口の中が切れているようで、咳き込んだ瞬間に、彼は血を吐き出した。
「……ッ!?」
顔をほんの少し上げてみると、すぐ目の前に炎があった。彼の前髪の先を、熱がチリチリと焦がしている。彼はすぐに顔を逸らそうとして、全身の痛みに顔をしかめた。体のあちこちが、打撲痕や切り傷でいっぱいだ。頭は重いし、耳の奥もガンガンと痛む。ひょっとしたら、鼓膜が破れているのかもしれない。右腕も、うまく動かない。折れてはいないのだろうが、肩に力が入れなかった。
その時、彼の体の下で何かがモゾモゾと動くのを感じる。
「……そうだ……朝陽……無事か?」
彼は先ほどの瞬間に、目の前にいた朝陽をかばうように、覆いかぶさったのだった。我ながら、咄嗟によくあれだけ動けたものだと思う。
「さっさと……ここから離れるぞ……いつ……燃料に引火するか……」
そう言って、腕の中を覗き込む。
「動けるか……朝……陽?」
しかし、そこに朝陽はいなかった。
代わりに、その腕に収まっていたのは、全く見知らぬ、一人のおじさんだった。彼の胸の中で、禿頭の男性が伸びて気を失ってのびていたのだ。
「……ひ、人違い……かも……でした……」
なんと無様なことだろう。颯爽と妹を守ったかと思ったら、助けたのは見知らぬおっさんだったのだ。なんともむなしい気分に襲われながら、彼はなんとか立ち上がった。幸い、どこも折れてはいないようで、どうにか動けそうだった。