第1章 邂逅ーHappening-【6】
見渡した周囲には、他に誰もいない。というより、十条九のいるこの空間が、崩れた天井で分断されているようだった。さほど広くない空間に、自分たち二人と、音を立てて燃える炎がある。そして、出口がない。それに気づいた瞬間、十条九は顔をしかめていた。
「これじゃ、救助が来る前に酸欠になる……早く、しないと……煙吸ったらやばいし……あとは……」
なかば引きずるようにして、男性を炎から遠ざける。それから彼は、手近な瓦礫の山を崩し始めた。
「どうにか、空気が通るようにしないと……」
動く方の左手で、必死に瓦礫を除けていく。瓦礫を掴んでは投げ、それを繰り返していく間に、手に持った瓦礫が、何かで滑って転がり落ちた。見ると、手のひらが真っ赤に濡れている。だいぶ深く切れたようで、血がボタボタと溢れていく。それでも、彼は瓦礫の山をひたすら掘り続けた。
どのくらいの間、そうしていたのか分からない。数分のことのようにも感じたし、その数十倍もかかったようにも感じる。だが、血で濡れた彼の手のひらに、確かに空気が流れるのが触れた。
「もう、少し……」
呻くようにしながら、次の瓦礫に手を伸ばす。だが、地面に食い込んでしまっているのか、どれほど力を込めても、それは動きそうにない。それに加えて、左手の感覚が無くなっていた。
「くそ、ここまできて……」
思わず、脱力してその場にへたりこむ。段々と酸素が薄くなってきているのか、いくら空気を吸っても、吸い足りない感覚がしていた。
「……いっそ、自分一人なら諦めがついたものを」
振り返った先に、例の男性が横たわっている。胸が微かに上下しているところを見ると、まだ無事のようだ。
十条九は、先ほどから掘り続けてできた穴を睨み付ける。その一番奥にある、動かない瓦礫へと、彼は蹴りを入れた。しかし、それでも瓦礫はびくともせず、蹴った反動で彼の方が倒れる始末だった。左の手の甲で汗を拭いながら、再び立ち上がる。そして、彼はもう一度、同じように瓦礫を蹴った。
まるで同じ動きをするだけの機械のように、蹴り続ける。もはや、頭で何かを考えることすら、ままならなかった。何度も、何度も、蹴り続ける。やがて膝に力が入らなくなり、彼はくず折れるようにして倒れこんだ。
「……く……そ……」
もう一度、と力を込めた足が、血溜まりで滑る。そのまま彼は起き上がることもできずに、視界が暗転していった。
―7―
「……痛……っ」
十条朝陽は暗闇の中、激痛で目を覚ました。どうやら、しばらくの間気を失っていたらしい。周囲は真っ暗で、何も見えなかった。ここがどこなのかも分からない。ぼんやりとした思考の中で、彼女は携帯電話を取り出した。薄ら白い光が、彼女の顔を照らし出す。そのまま、何気なく周囲に光を向けた。
見えたのは、ただの瓦礫の山。よくよく見てみると光の奥の方に、飛行機の翼が、モニュメントのように地面へ突き刺さっていた。恐らくあれに吹き飛ばされて、周囲の壁ごと建物の奥に押し込まれたのだろう。即死しなかったことが、嘘のようだ。
「……ッ!いっ……」
体を起こそうとして、再び激痛に襲われる。じわっと、彼女の目に涙が浮かんだ。尋常ではない痛みに、表情がゆがむ。彼女は痛みの元である右脚を照らして見ようとして、やめた。傷を見てしまったが最後、自分が動けなくなってしまうのが、何となく彼女にも分かっていたのだ。
しばらく痛みに耐えてじっとしていた彼女は、震える指で携帯電話を操作し始める。こんな時、どこに連絡すればいいのだろうか。警察か、消防か、あるいはそんな連絡はそもそも意味がないのか。友人に電話すれば、何か励みの言葉をもらえるだろうか。先輩に連絡すれば、安心させてくれるような言葉をかけてくれるだろうか。兄に連絡すれば――そもそも兄は、無事なのだろうか。
しかし彼女はすぐに、指先に触れる携帯電話の画面に、違和感があることに気づいた。
「画面、バキバキだ……」
大きなヒビが、画面全体に広がっている。最初のうちは辛うじて反応していたものの、段々と画面の動きが鈍くなり、しまいには固まってしまった。これで携帯電話は、ただの懐中電灯と大して変わらなくなってしまった。それでも、明かりの役割を果たしてくれているだけ幾分マシだろう。
彼女は、その光を頼りに周囲を見渡す。しかし、広く、荒廃したその空間には、誰もいなかった。
「誰か……誰かいませんか!?」
彼女は、できる限り大きな声で叫ぶ。もしかしたらこの位置から見えないというだけで、どこかに人がいるかもしれない。
「いたら、返事をしてください!誰か……」
もしかしたら、そこの瓦礫の向こう側に、誰かがいるかもしれない。そう思いながら何度も、誰もいない物陰を覗き込む。内心ではすでに気付きつつあるはずの、受け入れたくない事実を否定したいがために、彼女は声を張り上げていた。
「誰か……」
返事はない。誰も、彼女に応える者はいない。外とも連絡がつかない。完璧に分断されてしまっている。この暗い空間の中で、彼女は完全に一人だった。
「ははっ……笑えないって、これ」
自嘲するように笑った後で、彼女の表情がひきつった。
「お願い……誰か返事してよ……」
彼女は自分の体を抱き締めるようにうずくまると、ぶつぶつと呟く。
「嫌だよ……一人にしないでよ……もう、一人は嫌なのに……」
その時、不意に瓦礫が崩れる音がして、弾かれたように顔を上げる。積み重なった瓦礫の中に、人の上半身のようなものが見えた。暗い中で容姿までは見て取れないが、うな垂れるような格好で、こちらに向かって手を伸ばしている。
「だ、大丈夫ですか!?今、そっちに行きますから!」
大きく声を上げながら、床の上を這うようにして進む。途中、散乱する瓦礫で体を何箇所も切ったが、そんなことは気にせずに、彼女は体を引きずった。動かない右脚も、全身に走る激痛も、もはや気にならなかった。そんなことよりも、自分がこのだだっ広い空間の中で一人ではなかったという事実の方が、よほど重要だった。
「動けますか!?今……」
どうにかその場までたどり着くと、瓦礫の中からはみ出した頭部に向かって、携帯電話の光を向ける。その瞬間、彼女は悲鳴を上げていた。
顔が、なかったのだ。
まるで、やすりか何かで削り取られたかのように、顔が磨り減ってしまっている。血で赤黒く染まったその顔からは、所々骨が露出していて、光を受けたそれらは、暗闇の中で白く浮き上がっていた。中身が零れ落ちた眼窩と、収まるべき場所を失った舌がダラリと垂れているのを見た瞬間、朝陽は嘔吐感に口元を抑える。