第1章 邂逅ーHappening-【7】
「きゃっ……!」
驚いて後ろに下がった拍子に、真下から瓦礫の崩れる音が聞こえてくる。直後、ちょうど小高い丘のようになっていた瓦礫の山は、ガラガラと崩れていった。
突起物の多い瓦礫の斜面を、朝陽の体が転がり落ちる。悲鳴を上げる暇はなかった。気がつけば、何か鋭利な物に頭を思い切り打ち付けて、意識が飛びそうになっていたのだ。
「いっ……つ……」
投げ出された朝陽の体は、朦朧とした意識の中、冷たい床材の上に、仰向けに転がっていた。携帯電話はどこかに落としてしまったようで、周囲がひどく暗い。視界には、ぼやけた天井だけが映っている。
薄暗い空間。叩きつけられた痛み。誰もいない場所。この光景に、彼女は既視感のようなものを覚えていた。
幼少期の頃、十条朝陽は、虐待を受けていた。彼女の父親は、事あるごとに妻や娘に手を上げた。そして、散々痛めつけた後に、彼女たちのことを暗室へと閉じ込め、軟禁した。後に近隣の住民によって通報され、彼女の父親が傷害罪で逮捕されるまで、何度も何度も、彼女は殴られ、閉じ込められた。
彼女を診た医師の口から出た言葉は、PTSD。外傷後ストレス障害だった。
「ごめんなさい……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいっ……!ちゃんと言う事聞くから!何もいらないから!何も言わないから!いい子にするから!だからもうやめて!暗いのはイヤだ!痛いのはイヤ!一人はイヤ!イヤなの!怖いの!出して!出してよ!お願いだからここから出して!」
暗所、痛み、孤独。これらは未だ、数年の歳月を経た今でも、彼女がパニックを起こすための要因だった。
子供のようにうずくまりながら、ブツブツと呟く。異様に呼吸や心拍が速くなっていく中、目からボロボロと涙が零れていった。不意に、それに混じって、額を何かがツーッと伝う。手で拭ってみると、まだ温かいそれは、赤黒い血液だった。思わず、傷口の方に触れてしまう。その瞬間、自分のものとは思えないほどに無様な悲鳴が上がった。
指先が嫌な感触を覚えるのと同時に、全身を電流が駆け巡るような痛みに襲われる。どうやら、かなり深く切れているらしい。もしかしたら、骨にまで届いてしまっているのではないだろうか。そんな考えが、余計に恐怖を煽る。もはや、息を吸うのですら、苦しくてやめたくなっていた。
「――大丈夫。すぐに助けは来るわ。だから、安心して、ゆっくり息をしなさい」
その声が聞こえてきたのがあまりにも唐突すぎて、一瞬本当に息をするのを忘れていた。弾かれたように声のする方向を振り返ると、近くの物陰に、女性の横顔が見える。40歳くらいだろう。見る限り、日本人の顔立ちではない。長い薄紅色の髪が、乱れて顔にかかっている。横顔だけでも、それがかなり整った容姿であることが分かった。
「こんばんは、お嬢さん。ずいぶん派手に落ちてきたみたいだけど、大丈夫?」
「え……あ……」
返す言葉が、咄嗟に出てこない。というより、目の前の現状に、どう反応したらいいのか分からなかった。
「あら、頭を打ったの?ずいぶん傷が深そうだけど……私の言ってること、分かる?」
「あ、はい!大丈夫です!ただ、えっと……その……」
慌てたように何度も頷いた後で、十条朝陽は口ごもる。あまりの安堵感に、何から口に出していいものか、まるで分からなかったのだ。感情のままに泣き出してしまえば楽なのだろうが、それが相手を困らせる事を分かっていた彼女は、無理にでも言葉を探そうとする。
「……さっきの、聞こえてました?」
咄嗟に自らの口から出てきた言葉に、朝陽は思わず顔を赤らめる。こんな状況でも真っ先に人の視線を気にする辺り、兄に反論できないと、内心でため息を吐く。もはや、動かない右脚や額の怪我よりも、そちらの方が気になって仕方なくなっていた。
「まあ、極限状態になったら、誰だってそうなるものよ。さて、怪我を見てあげたいところだけど、ちょっと、私も動けない状況なの。もし動けるなら、こっちに来てもらえるかしら?」
朝陽の内情を察したように、女性は優しく微笑を浮かべている。何も気にしていないという口調が、だいぶありがたかった。極論、朝陽は悪い意味で注目を浴びることや、物笑いの種になることを、ことごとく嫌っているのだ。
彼女は右脚に気をつけながら、ゆっくりと体を起こした。立ち上がるのが困難だったため、そのまま這うような姿勢で女性の方へ向かう。他人には到底見せられない格好に、彼女は再び頬が熱くなるのを感じていた。
「床、ひどく散らかってるから、気をつけてね」
一際大きな瓦礫の陰から、こちらを気遣う声が聞こえてくる。そこへ向かう途中、彼女は自分の携帯電話が、その近くでぼんやりと光を放っているのを見つけ、手に取った。どうりで、闇の中でも女性の顔がはっきり見えたわけだと、朝陽は納得する。
だが、その光が瓦礫の陰を照らし出した瞬間、朝陽は息を呑んでいた。
「……そん、な……」
朝陽の視線の先で、女性が微笑んでいる。
その左肩から先がなかったのだ。
その上、彼女の体の下半分が、見るからに重そうな、大きな金属片の下敷きになっている。それにも関わらず、彼女は大したことがないというように、笑っているだけだった。
「もう、そんな顔しないで……って、本当にひどい怪我ね」
女性の右手がこちらに伸び、朝陽の顔に触れる。だがどう考えても、自分の額の怪我が、左腕のない女性に心配されるほどに深いわけはない。
「せっかく可愛い顔が、汚れちゃってるわ。それに、ずいぶん泣いたみたいね。これは明日、目が腫れるわよ」
冗談でも言うような口調に、朝陽は背筋を冷たいものが走るのを感じた。その言葉がまるで、死ぬことを受容したが故の、一種の余裕のようにも聞こえたのだ。
「それどころじゃ……ま、待っててください!今、それをどかしますから!」
朝陽は、思い通りに動かない体をなんとか動かして、彼女の上に横たわっている金属片に手をかける。
「……っ、……ぅっ……」
右足には力をかけないように、左足で踏ん張りながらそれを退かそうと試みる。だが、力を込めるのと同時に、再び額の傷口から血が溢れ出し、激痛が走った。
「……いっ……あぁっ!」
「やめなさい。そんなことしたら、あなたの傷の方が、悪化しちゃうわ」
女性が、穏やかな声で口にする。途端に、全身に寒気が走った。その言葉は、生きることを諦めた人のそれと、同じ意味を持っているように感じられたのだ。
「だ、だめです!そんなの……死んじゃったら……」
「その前に、あなたが死んじゃうわよ。安心しなさい、私はもうしばらく死なないから」
恐怖とも焦りともつかない感情が、彼女の中で膨れ上がる。そんなの、どう考えても嘘に決まっている。片腕を失くして、下半身を押し潰された人間が、生きていられるはずがない。ここで自分が助けなければ、この女性は間違いなく死んでしまうだろう。
そうすれば、自分は再び一人だ。この暗い空間の中で、一人きりになる。いつ来るかもわからない救助を待ちながら、ただ一人で耐えなければならない。ひょっとしたら、それも間に合わずに、息絶えてしまうかもしれない。
たった、一人きり。それは、あまりにも耐え難い。耐えられない。
「別に強がりだとか、そういうのじゃないわ。それに、実を言うと両足も持ってかれているの。結構グチャグチャで……あまり見せたいものでもないわ。あなたも、女の子なら分かるでしょ?」
「け、けど……」
「あ、それとね、こういう時へたに動かすと、かえって余計に出血しちゃうかもしれないのよ」
その言葉すらも、自分の事を諦めさせるための口実のような気がして、朝陽は何度か逡巡する。しかし、彼女の言っている事が事実でもある以上、それを考慮しないわけにもいかず、しぶしぶと持っていた物から手を離した。
「あ、あの……せめて、傷口だけでも、何かで縛ったほうが……」
「いや、あなたはもうちょっと、自分のケガの心配しましょうよ?頭の出血はひどいし、右脚なんて、グチャグチャじゃないの」
なるべく考えないようにしていたことをサラッと言われてしまい、彼女はうろたえそうになる。それをごまかすように、彼女は携帯電話の光を女性の左肩に向けた。
「でも、そのままにしてたら、あなたの方が先に出血多量になって……」
服の袖に隠れて傷口は見えないが、今も彼女の服を濡らしている液体は、ポタポタと血溜りを作っている。
「……あれ……?」
最初は、彼女の見間違えかと思った。朝陽は、血溜りの方に携帯の光を向けて、それを凝視する。
「……黒……い……?」
間違いなく、彼女の傷口からこぼれるその液体は黒かったのだ。墨のような濃い黒の液体が、携帯電話の明かりに照らされて、不気味に浮かび上がっている。
「これ……どういうこと……」
説明を求めるように、朝陽は女性の方を見た。女性は再び困ったような笑みを浮かべて、顔を上げる。
「……こういうこと、かしらね」
女性は右手の人差し指を口の端にかけると、そのまま横へと引っ張った。その口の中には、人間のものとは思えないほどに鋭い犬歯が生えている。
否、「人間のものとは思えない」のではない。
黒い血も鋭い牙も、明らかに別の生き物のそれだったのだ。