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第1章 邂逅ーHappening-【11】
「うぜえ」
それっきり、朝陽の耳には男が荒く息をする声しか聞こえてこない。何が起きたのかを察するのには、それで十分だった。
「いやっ……そん……な……っ」
朝陽には、顔を上げることができなかった。だんだんと頭の中が白くなっていき、現実逃避を始める。
「うぜえよ‼この老いぼれが‼死に際に説教たれてんじゃねえよ‼」
腹の底から出した声が、辺りに響いた。
「……ちっ!このクソババアが……面倒ごと増やしやがって!あの身体だったんだ……そう遠くに隠せたわけはねぇ……」
ガラガラと瓦礫を崩す音が、朝陽の方へと近づいてくる。
「きゃっ!?」
不意に、朝陽の髪が掴まれた。そのまま、乱暴に朝陽を立たせる。
「いっ……たっ……!やめてっ!」
「オレの部下どもは、兄貴らを止めんので忙しいからなぁ。ちょっと探し物手伝ってくれよ」
「……っ、誰がそんなことっ……」
ふと、朝陽の視界に男の背後が映る。逃れようのない現実が、そこに転がっていた。
「うっ……あっ……」
吐き気がこみ上げてくるよりも早く、朝陽は男に突き飛ばされた。
「わりーんだけど、そういうリアクション見て面白がってる余裕もないんだわ。それと、お前に拒否権はない」
腰を地面に打ち付けたままの朝陽の方に、男がグッと屈んで顔を寄せる。
「……いやだ。」
かすれた声で、朝陽はなんとか口にした。
「……あんたの言うことなんか、聞かない……」
「はいはい、そいつはずいぶん勇敢なこった。つーか、何勘違いしてんのお前?拒否権はねーっつったろ」
まるで馬鹿でも見るような目をしながら、男はわざとらしくため息を吐いた。
「バカでも分かる吸血鬼クイ~ズ!さて、問題です。吸血鬼に血を吸われると、どうなっちゃうでしょーか!?はい、残念時間切れ!答えは、吸われた方も吸血鬼になる、でした!」
「だから、それがなんだってのよ……」
そんな脅しには乗らないというように、朝陽は相手を睨みつける。それが、精一杯の抵抗だった。
「さらにさらにィ~?吸血鬼は、自分よりも高位の相手の命令に逆らえまっせーん。わかる?お前が吸血鬼になったら、オレには逆らえないの」
「…………!」
ククッ、と、男は楽しげに喉の奥で笑う。
「状況が飲み込めた、って顔してんな」
再び、男は乱暴に朝陽の髪を掴む。そのまま、無理やりに引っ張って朝陽の顔を上に向かせた。
「いやっ!やめてっ!」
じたばたと、まるで悪あがきのように男の脚を蹴る。そんなことは意にも介さないというように、男は朝陽の首筋に、顔を近づけた。
しかし、ふとその瞬間に、男は動きを止める。
――蹴られている?この少女に?
――腰の骨に異常をきたしているのに?
ふつふつと、彼の中で疑問がわきあがる。
そもそも、乗客か、少なくともこの飛行機事故に巻き込まれたであろうこの少女が、なぜ『無傷』なのだ?
見たところ、彼女が身にまとっているどこかの高校の制服は、あちこちがずたずたに裂け、血の色で赤黒い染みをつくっている。
それなのにも関わらず、彼女の身体には『傷一つ付いていない』のだ――
「……まさか……」
知らず知らずのうちに、男はまじまじと少女のことを眺めていた。そして、うかつにも、彼女の髪を掴むその手の力を、ほんのわずかに緩めていた。
「やめて……」
そんな、男のわずかな精神の弛緩の合間に、朝陽は顔を下に向ける。二人の視線が、交錯した、その瞬間だった。
「『やめて』よ」
呟くような声で、彼女は繰り返した。
「……がっ……あ……!?」
突如、まるで電流が駆け巡るような、そんな衝撃が、男の全身を襲っていた。同時に、体全体の自由が利かなくなる。身体中の神経を支配されてしまったように、指一本すら動かせない。痛みを伴う痺れに、彼は全身を支配されていた。その中で、彼は朝陽の目から視線を逸らせない。
――その瞳は、深い海のような『藍色』をしていた。
当の朝陽本人は、眼前で虚を突かれたような顔で固まったままの男を見て、困惑していた。しかし、すぐさま自分が置かれている状況を思い出し、髪を掴んでいる男の手から逃れようと身体を後ろに引く。その手は、なんの抵抗もすることなく朝陽の髪を放した。
「クソッ、このアマァ‼何しやがった、テメェ‼」
男が、憎悪の表情で叫ぶ。朝陽自身にも、何が起きているのかを呑み込めていない。しかし、これが紛れもないチャンスだということくらいは、彼女も理解していた。
だが。
「やれやれ、こんなところにいましたか」
コツ、と、革靴が瓦礫を踏むような音が、彼女のすぐ後ろから聞こえてきたのだ。ゾクッという悪寒を感じるのと同時に、彼女は振り返る。そこには、高そうな黒いスーツに身を包んだ男性が、優雅とも言える佇まいで立っていた。
見たところ、金髪の男よりも幾分か年上のようで、恐らくは20台後半くらいの容姿だろう。その顔は、なぜこんなみすぼらしい場所にこんな人が立っているのだろうかと不思議になるほど、あまりにも端整だった。片手にはステッキを持ち、空いた手でシルクハットのつばを押さえている様は、まるで絵本の登場人物が、そのまま現実世界に飛び出てきたかのようだ。
「その様子だと、『右腕』はあなたが取り込んだようですね、トーマ」
さして無関心な、そんな目を朝陽の後ろにいる金髪に向ける。それから、朝陽の方に視線を移すと、口元に上品な笑みを浮かべた。
「お騒がせしてしまい、申し訳ありません。愚弟がご迷惑をおかけしました」
言いながら、彼は帽子を取ると、丁寧に頭を下げる。
「何分、レディの扱いには慣れていないようでして」
その顔に浮かべられた笑みは、その辺の女子ならば思わずホイホイとついて行ってしまいそうな、そんな魅惑的な笑みだった。無論、朝陽はそんなことに現を抜かしていられるような状況ではなかったが。
愚弟、と、この男はそう言ったのだ。愚かな弟、と、自分の弟を謙(へりくだ)ってそう言ったのだ。自分は吸血鬼の兄だと、そう言ったのだ。
「おい……クソ兄貴!その女から離れろ‼」
不意に張り上げられた声に、朝陽は振り返る。トーマと呼ばれたその男は、全身を痙攣させながらも、何とか身体を動かそうとしていた。
「そいつは……オレのモンだ‼勝手に手ぇ出すな‼」
「……その焦りよう、やはり、『目』はこちらの方に……いや、『心臓』も、ですか」
ふむ、と興味深そうな視線を朝陽に向ける。
「だから、さっさと離れろ!そいつはオレのだって――」
「……さっきから」
スッと、男がトーマの前に移動した。そして、素早くステッキの柄をみぞおちの辺りに叩き込む。
「がっ……」
「女性を物扱いするなど、あなたは何様のつもりですか。まったく、あなたには品位がない」
呻くトーマの前で、男は冷酷な声で吐き捨てるように言った。
「あなたのお仲間も、品のない連中ばかりでしたが……あなたは、それ以下ですね」
「……っ!てめえ、オレの部下どもを……」
「まるで私が悪人のような言い方ですね。こうなるのは分かっていたはずですよ。恨み言のようなことを言わないでください。それとも、あなたは本気で、彼らに私が止められると思っていたと?しょせん、彼らのことも足止め程度にしか考えていなかったのでしょう?そんなことに部下の命を懸けさせるなど、あなたは、誰かの上に立つ器ではありませんね」
言いながら、まだ十分に身体の動かないトーマに背を向ける。余裕をたっぷりと含んだ笑みが、その顔に浮かんでいた。
「お見苦しいところを。申し訳ありません。そうそう、私としたことが、まだ名乗っておりませんでした。私は、ダンと申します。どうやら、母がお世話になったようで」
母、というその言葉に、再び先ほどの光景が浮かぶ。ちょうどトーマの後ろに、まだその惨劇が転がっているはずだ。
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