第1章 邂逅ーHappening-【10】
「オレの身体に一瞬で深手を負わせられるとは……さすが、『女王の右腕』だな。が、もうさすがにこいつを振るう力は残ってねーか」
口にしながら、男は女性の右腕をひねり始めた。女性の肩が、ミシミシと軋んだ音を立てる。
「安心しな。この右腕は、オレがちゃんと……ガッ!?」
その瞬間、男の頭部を衝撃が襲った。ガスッ、という鈍い音が、辺りに響く。朝陽が助走を付け、手に持った鉄くずで男の頭を殴りつけた音だった。彼は目の前の獲物に気を取られ、朝陽の接近を許していたのだ。
しかし、男は表情をピクリともさせないまま、微動だにしなかった。
「うっわぁ、コワイコワイ!最近の高校生は、思い通りにならない事があると、鉄筋で人の頭殴ってくんのかよ。意識が飛んじゃうかと思ったわー!」
顔を上げないまま、その目がジロリと朝陽の事を睨む。
「なんつって、結局オレは無傷ですけども。あのさぁ、さっきからお前はなんなの?正義感かなんかのつもり?こんなことしてなんになるの?誰か褒めてくれんの?あぁ、あれか?困っている人がいたら助けましょうって、学校で習ってんのか?うん、えらいえらい。オレ、学がないから知らなかったわー。まあ、結局……」
男は、朝陽に見せ付けるようにしながら、そのままゆっくりと女性の腕をひねる。
直後、木の幹が折れるような音とともに、本来曲がらないような方向に、その腕が曲がっていた。
「きゃっ……!」
「お前には、何もできなかったねぇ」
よろよろと、朝陽は後ろに下がる。
その様子をニヤニヤと笑って眺めながら、男は女性の右腕を思い切り引く。
直後、肉を裂く嫌な音が、辺りに響き渡った。
「いやああああっ!!」
両手で頭を抱えるようにしながら、朝陽は絶叫する。その様を、男は愉快げに嘲笑していた。
「ぷっ……くくっ、はははは!マジでウケる!楽しいなぁ、自分にも何か出来るとか思っちゃってる勘違い野郎の鼻をへし折るのって。なあ、今どんな気分なわけ?」
一頻り笑った後で、男は引きちぎった右腕にまじまじと目を向ける。
「さてと、ちょうど右腕なくしちゃったとこだし……血ィ吸うより、このままくっ付けちまったほうが早いか。よっ……と」
男は手に持った腕の断面を確認した後で、それを自らの右肩に押し当てる。直後、欠損した彼の肩と腕との間で、奇妙な音が鳴り始めた。粘着質な、肉の塊をこね合わせるような音。臓物同士を擦り合わせるような、不快感を伴う音の正体は、持ち主の違う二つの肉が、一つに癒着しようとするものだった。
血管同士が絡まり、細胞壁と細胞壁の境が消える。科学も医学も無視した超常的な光景を、男は当然のように眺めていた。
「ほい、合体。いっちょーあがり、っと」
まるで感触を確かめるように、右手の開閉を繰り返す。その動きに支障がない事を確かめると、男は満足げに微笑んだ。
「こんな雑なやり方でくっ付くとはなー。なんだかんだでやっぱり親子か」
さてと、と口にし、男は顔を上げる。
「残りもとっとともらうか。兄貴どもが来たら面倒だし……って、あぁ?」
その視界に、男に背を向けて走る朝陽の姿が映った。その腕に抱えられたものを見て、男は眉をひそめた。
「おいおい……ここまでされるとさすがに笑えねーよ?」
彼女が人一人を抱えたまま走れたのは、女性が両手両足を失い、軽くなったからだろうか。それとも運動部で鍛えた身体のおかげか、あるいは火事場の馬鹿力というやつか。
いずれにせよ、彼女は女性を抱え、全力で走っていた。
「……あ……さひ、ちゃん」
ようやく声帯が治ったのか、腕の中から絞り出したような声が聞こえた。
「なに……して……?」
「……逃げなきゃ」
ぽつりと、朝陽は呟く。焦点の合っていないその目は、もはや正常とは言い難かった。
「逃げなきゃ……逃げなきゃ逃げなきゃ逃げなきゃ……早く早く早く早くっ!」
「……っ、あさひちゃ、ん……落ち着いて……落ち着きなさい!」
強い口調で言われ、朝陽は思わず体をビクッと震わせながら立ち止まった。
「いい?あさひちゃん、よく聞いて……私の眼を見て、話を聞くの」
取り乱していたはずなのに、朝陽は不思議と、女性の言うことに引き込まれていく。彼女の藍色の瞳から、朝陽は眼を離せなくなっていた。
「……ごめんね。でも、あなたが助かる方法、これしかないから――」
立ち止まったまま、朝陽は女性の言葉に耳を傾けている。その間に男は、朝陽の背後へと歩み寄っていた。逃げていたはずの朝陽が足を止めた理由も、何をしているかも分からないが、男のする事は決まっていた。
「せーの、トウッ‼」
強烈な衝撃が、朝陽を襲った。背後から腰の辺りを、思い切り蹴り飛ばされたのだ。
「がっ……ふっ……」
そのまま、彼女は前のめりに転がった。すぐさま起き上がろうとするが、激痛が走り、身体が動かない。それどころか、指一本でも動かせば、途端に意識が飛びそうだった。
「さすがにもう動けねーだろ。腰の骨が砕けたか……少なくともずれてるんだから」
「そん……な……」
もはやここまでか、と、朝陽はうな垂れた。むしろ、傷を負った身でここまで逃げたことが、奇跡に近い――
そこまで思考して、彼女はおかしなことに気が付いた。自分はケガをしていたんじゃなかったのか?出血多量で、動くことさえままならなかったんじゃなかったのか――
「じゃあ、今度こそお別れの時間だ。よかったなぁオフクロ。最後に人に優しくしてもらって」
男が、地面に放り出された女性に近づく。うつ伏せになった朝陽からは、その光景が見えなかった。
「……あ?どうなってる……?」
不機嫌そうな男の声が、朝陽の耳にも届いた。
「おい……おいおいおい!冗談キツイぞ……」
焦ったように言いながら、男は女性の首を右手で掴む。そのまま、女性の身体を力任せに持ち上げた。
「あんた……『目』と『心臓』をどこへやった!?」
女性は目を閉じたまま、嘲笑するように小さく笑う。
「そんなに首を絞めたら、苦しくて喋れないんだけどなぁ……」
「ふざけんなッ!!」
男は女性の身体を地面に叩きつける。瓦礫の破片が周囲へ飛び散る中で、女性の表情は崩れない。
してやった、ざまあみろ、というような笑みで、女性はなすがままにされているのだ。
「おい……死ぬ前にさっさと答えろ。『目』と『心臓』をどこへやった!?さっきまでは確かにあったんだ‼答えろ‼ほら‼さもないと……」
「さもないと、私を殺す?ずいぶん余裕がなさそうね。ま、ご自由にどうぞ。どのみち、いくら私たち吸血鬼でも、心臓がなければ血が全身に回らず、回復が間に合わずにいずれ死ぬわ。放っておいても、私は死ぬ」
クスクスと、まるで嘲るかのように女性は笑った。
「……ッ、このっ……!!」
グッと、男の腕に力がこもる。女性の首が、ギリギリと音をたてた。
「……っ、あなたに……一つだけ……忠告しといてあげる……今のあなたじゃ……シュウはおろか……ミラにさえ……ただでさえ、あなたは昔からそそっかし……」
その直後、ゴキン、という音とともに、女性の声が途絶えていた。